菱と縁戚関係があり、今の主筆田川氏は大隈系の秀才であり、田川主筆の次席大谷誠夫君は一時円城寺天山あたりと改進党党報の記者をしていたこともあり、編輯氏の山本移山君また四国に於て進歩系の有力家の家に生れた人であったと記憶する、そこを松岡君が政友会の人となり、星亨《ほしとおる》の追弔文などを書き出したものだから、大谷君が激怒したことがあったように記憶する、つまり松岡君は大谷君が紹介して入社させ、自分が影日向《かげひなた》になって育てたのに、怨《うら》み重なる政友系の方へ寝返りを打たれたので憤激したものであろうと思っている。
 松岡君はそういう才物であったし、それに男っぷりがいいものだから、先輩に可愛がられる特徴をもっていて、随分金を融通することに妙を得ていた、その松岡君が周旋して都新聞を足利の実業家福田英助氏に買わせた。
 そうして福田君を社長にして自分が先輩を乗り越えて副社長の地位に坐り込んで、その勢で選挙に出馬して首尾よく代議士の議席を齎《か》ち得た、無論政友系として下野の鹿沼あたりから出馬したが、その背景には横田千之助がいたと思われる、松岡と横田との交渉は何処から始まったか知れないが、松岡は大いに横田をつかまえていたらしかった、それと同時に都新聞の背後にも横田系即ち政友系が大いに進出して来た模様であった、しかし社中は従来の歴史を重んじて都新聞を政友系とすることには極力反対していたようであった、これには横田の勢力も松岡の才気も施す術《すべ》が無かったようだ、しかし小生としては此度の社の変遷にも何か重大な責任の一部分がありそうな気がしてたまらないからその何れにも関せず、ここで清算しなければならぬと考えたから、当時松岡君がわざわざやって来て是非若いものだけであの新聞をやりたいから踏み止まってくれと説得して来たのは必ずしも儀礼ばかりではない事実上、若いものを主として主力を政友系に置いて大いに発展して見るつもりであったろうと思う、しかし余は全く辞退して前社長楠本男、前主筆田川氏に殉じたとは云わないが、その時代で一時期を画して後任者の経営のもとには全く関係のない身となった、松岡君も我輩の意を諒してその清算に同意してくれた。
 そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
 そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したこと
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