1−14−82]でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵に引立てられたものだ、追々洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]君と終始して少しも問題は起らなかった。
それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野《しもつけ》の実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が洋行中のことであった。
この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと云われたものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の新聞の羨望の的であった、その新聞を楠本男が急に手離すようになったのは、年漸く老い社務も倦《う》んで来たせいであろうと思われる、福田氏に譲り渡しの間を周旋したものは松岡俊三君であった。
松岡君は今は山形県選出の政友会の代議士となっているが都へ入社したのは余と同時であった、当時余は二十二歳、松岡君は二十八歳小生はくすぶった小学校教員上り、松岡君は紅顔の美男子であった、そのうち松岡君は市政方面から政治界へ進出する機会を作ったが、小生は不相変《あいかわらず》都新聞の第一面の編輯でくすぶっていたのだ、そのうち松岡君は政友会へ入り込んだ、これは市政記者として出入している間に森久保系や何かと懇意なものが出来たせいもあるだろう、余輩もまた同君の政界進出を推奨して、とてもやる以上は寧ろ政友会へ入ったらよかろうと薦めたこともある、しかし、都新聞という新聞はその歴史に於て決して政友系ではあり得ない、先代楠本正敏男が改進系であり、その後の社長も蘆高朗氏も三
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