骸安置の場所は大菩薩峠の上あたりに越したことはなかろうけれども、あそこまで担ぎ上げるのが難儀とあらばその麓《ふもと》あたりのなるべく人家に遠い処でもよろしい、故郷の地は断じていけない、若し必要があるならば、頭髪でも少し切って故郷には届けてやるがよろしい。

 第十 紀念館の所在地も現在のは全部取りこわし或いは移転してもし小さくとも保存するならば東京附近、明治神宮あたりの地があらば幸、従来の地はそのままにして木を植えて置くこと。

     演劇と我(1)

 妙な廻り合せで余輩は演劇というものに思いの外縁がある、世の中に何が華々しい職業だといって演劇ほどの華々しい仕事はあるまい、ところがこっちは派手を嫌うこと、世間へ面出《かおだ》しをすることを嫌がるに於ては無類の男である、それがつながり連がって行くというのも因縁であろう、さて、この度もまた大菩薩峠の形訳上演ということになった、そこで聊《いささ》か劇に就いての繰り言をこの機会に少々並べて後日の記念に備えて置きたいものだと思う。
 抑《そもそ》も余が演劇に本式に関係を持ち出したのはたしか二十四五歳の時、本郷座の「高野の義人」を紀元として見るがよかろう、この時は余は都新聞にいて誰も小説で相当の成功を見ようとは思わなかったのが「高野の義人」が都新聞紙上に連載されて相当の好成績を示していた時分のことだ、当時本郷座は新派の牙城であって巨頭が皆ここに集って歌舞伎の俳優と相対し、天下を二分していたのだが、一時は歌舞伎即ち旧派を圧倒した時代もあったのだが、その時分になるとそれも聊か下火になって毎回どうも思わしからぬ形勢であったのだ、本郷座にも俳優といえば高田実があり、伊井蓉峯があり、藤沢浅次郎があり、河合武雄があり、喜多村緑郎があり、深沢恒造がありその他門下|各々《おのおの》英材が満ち充ちて役者に不足はなかったのだが脚本に全く欠乏していたのである、というのは、不如帰《ほととぎす》でもなし、乳姉妹でもなし、魔風恋風でもなし、新派のやるべきものはやり尽して仝《おな》じ型で鼻についてしまったのだ、脚本家として佐藤紅緑氏が大いに成功もし努めもしたけれどもそれとても隻手をもって無限の供給に堪えきれなくなった俳優の人材に不足はないけれども脚本飢饉の為に新派は衰滅の道を取ろうとしていた時であった、「高野の義人」の時も佐藤紅緑氏が例によって新派の為
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