が素晴らしい勢となって一代の流行児となったのだが、こちらはもう彼を一度世に出すだけのことをしてやればよい、彼は彼としての存在を示せばよいのだ、そこで、全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとしはじめた、そうして著者に対しては十二分の反抗心を蓄えながら作物だけは大いに利用しようとした処に、すさまじい悖反《はいはん》がある、それが為に我輩の悩まされたると手古《てこ》ずらされた事は少々なものでなかった。
 余の老婆心では彼のいい処は認めるが、然しながらあの行き方では精々お山の大将で終るだけのもので、あれを打ち破らなければ本ものにならないと見ていたのだが、彼の周囲の文士とか劇作家とかいう手合は徒《いたず》らにその薄っペラなところだけを増長させて、彼を人気天狗に仕立て上げてしまう外には何にもなし得ないものだ、そういう社会の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]ったが、事は愈々紛擾を増すばかりで、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
 大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気を煽《あお》ることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずして寧《むし》ろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子《まなでし》である、一
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