見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々《わざわざ》神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。

     演劇と我(3)

 しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口まで飛び出して来て我輩に上草履《うわぞうり》を進めたりなどする態度は甚だ慇懃《いんぎん》のものだ、しかしもう開幕間際だったから、楽屋へは行かず直ちに桟敷《さじき》に出て見物したが、竜之助が花道を出て大菩薩峠にかかるその姿勢がまた気に入らなかった、今更故人に対してアラを拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の難道という足どりは無く、峠の上へ来て四方を見渡す態度にも境界そのものがなくて、どうも見栄《みえ》を切って大向うの掛声を待ち受けるものの如くにしか見えなかったので、あゝこれは見ない方がいいと我輩はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないかもしれないが、これはどうも自分の癖で意気の合わぬものを辛抱してまで調子を合せるということは我輩には出来ぬことである、沢田君も多少その辺から癪《しゃく》に障《さわ》っていたかもしれぬ。
 そうしているうちに、愈々《いよいよ》また東上してたしか明治座での再度の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していようという態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが、生じい親切気を残したのが却って彼の為に毒となったようだ。
 果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功は我輩にとっては予想外でも何でも無かったが世間には予想外であった、前の時にあれほどみじめなものが、こんどは連日満員また満員で、満員を掲げなかったのは一日か二日という成績で打ち上げた、それから彼
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