しを聞かない、流石《さすが》の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それと共にこんどの「高野の義人」もやっぱりいけないだろう、それというのが新派が今まで髷物《まげもの》をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの、それに作者は一向聞えた人ではなし――というのが一般の定評で、伊原君なども現にその説の是認者であったようだ、ところが蓋《ふた》を明けて見ると舞台が活気横溢、出て来る人物が何れも従来の型外れ、見物はかなり面喰ったようだ、そうして連日の満員続き首尾よく大当りに当ったのだ、松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、坊主が好きだというような評判がその後ずっともてはやされたものだ、そんなようなわけで我輩は今日まで大谷君に逢うと旧友に逢うといったような気持もするのである、併し、この一挙は成功したが、それから我輩は劇というものは離れて見ているもので、自分の如きものが接近すべきものではないということと、それから劇評なんぞというものが如何にも興のさめたものだという感じに打たれて演劇熱が急転直下して冷めてしまった、新派もその後はやっぱり脚本に恵まれないで、当時の諸星が皆不遇のうちに空しく材能を抱いて落ちて行ったのだ。
 我輩はその後|数多《あまた》の小説を書いたし劇界からも可なりそれが興行方を懇請されたが一切断って劇と関係せず、大菩薩峠が出た後と雖《いえど》も劇の方は見向きもしなかったがそのうちに沢正事件というのが起って来た、此奴はかなりもつれたが未だにその真相を知っているものはあるまいから余り好ましくはないが次に一通り経過を書いて置いて見よう。

     演劇と我(2)

 自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
 さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れ
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