我輩は斯《こ》ういう次第で高田実信者であり(年少客気のみならず今日でもあれほどの俳優は無いと信じている)、その俳優にまた駈け出しの一青年である我輩の作物が演って貰えるということは本懐の至りでもあり光栄の至りとでも云わなければならなかったのだ、伊原君は偶然口利きになったけれども高田がどうして我輩の作物にそれほど興味を持っていたのか分らないようであった、また伊原君という人はなかなか利口な常識的な人だから高田のような天才肌の芸風よりは伊井のような人気のあるものを推賞していたようだった、本来座興的にそんな話はあってもものにはなるまいと誰も彼も見ていたのに、高田の殊の外の乗気にずんずん話が進むのに驚異の念を持っていたようだ、然し我輩に云わせると見ず知らずの一介の青年たる我輩の作に当時劇界を二分して新派の王者の地位にいた高田実が異常の注目を払っていたというのは必ずしも偶然とは思われない理由がある、それは高田崇拝の余り余輩は二三の雑誌にその感想を投書して載せられたことがある、それ等が高田の眼に触れて好感を呼びさまされていた素地があった所以《ゆえん》だと思う、そこで話が大いに進んでとうとうこれを通し狂言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞《しま》の羽織のようなじみな身なりをしていた。
当時の松竹というものは関西では既に覇《は》を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而《しか》もどの興行も当ったというため
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