足とに帰するような頭で、万象の葛藤を批判論断されてはたまりません……」
「ですけれども浅草の観音様が大震災の時に焼け残ったのは、紫の雲に乗った観世音菩薩の威神力《いじんりき》がそうあらしめたのではなく、あの四方の空地と樹木と消防の尽力とがそうさせたものでしょう」
「だからいわない事じゃありません……」
Cという胆汁質の脊広服が昂然として乗り出して来ました。
「あの時に相当の空地と樹木と消防の尽力を有していたのがひとり浅草の観音堂だけとは限りますまい――僕は一つその比較を本郷の帝国大学の図書館に取って見たいと思います、諸君、浅草の観音堂はたしかに寛永時代の創建と聞きました、無論、東京の市中では古建築の部に属する代表的の一つでしょう、本郷の帝大の大学図書館は、よくは知らないが、これは最近の建築に成り殊にその建築が学術上、技術上の当代の精粋を尽したものと見て差つかえないと思います、それが脆《もろ》くも焼け尽して木造の古建築観音堂が瓦一枚も損せずに残りました。なお比較して御覧になると四方の空地は浅草の観音より帝大の構内が広くとも狭かろうはずはありません、樹木も多かろうと少ないとは覚えません、殊に土地はズット下町を離れているから消防の余裕も多かったはずです――もし空地と樹木と消防の力が保存最大の条件としたならば観音堂が先に燃えつくして帝大の図書館が残らなければならないはずではありませんか」
「アハハハハハ」
その時一行の中から遽《にわ》かに哄笑が湧き上りました。それは嘲笑でもなければ感笑(変な熟字だが)でもありません。一種異様の笑い声でありました。胆汁質の脊広は、ちっとも騒がずに演説口調の雄弁をつづけます。
「聞く処によると、あの際、浅草の観音堂の消防に当った人々はこの観音様を焼いてはならぬ、どうしても観音の御堂を我らの力で守り通して見せると、それは決死の勇気を以て消防に当ったそうです、それとあのお堂の膝元に避難に来た人々は焼かれなばこのお堂と諸共に死なば観音様と御一緒に……そこで、彼らは他の避難をすすめても動かずに観音堂の周囲に殉死の覚悟をきめて、大火に囲まれながら動かなかった信仰は物すごくもあり崇厳の極でもあったと聞きました――諸君、書物は学者の生命であります。殊に帝大の図書館の如きは生命を以てしても購《あがな》い難きほどの貴重な国宝があったかも知れません、消防の設備はもとより完全であったでしょう、学者がそれを守り、それと運命を共にするの高尚な犠牲心が浅草の観音を守る市民と同じように行かなかったのは何故でしょう、これは千秋《せんしゅう》の恨事ではありませんか……」
一行は黙々として、この胆汁質の脊広の雄弁を聞き流している。
「学者がその宝庫を尊重すること市民が観音を信仰するほどの熱があったなら、あの図書館は亡びずして済んだでしょう……無論我々はこの一例を以て科学は亡び信仰は残るなんぞと高言したがるものではありませんが、その信と熱と力とは、たとえそれが迷信であろうとも正信であろうとも、その由って来る処を、ずんと奥深く考えて見る必要があると思います――」
一行はなお黙々としてこの胆汁質のいう処を聞き流して蟻のように上って行くうち、
「皆さん此処《ここ》が萩原大菩薩の頂上ですよ、大菩薩峠にはいわば二つの頂上があって、これが甲州方面の一つであります」
真先に群を離れて進んだ制服の学生が峠の頂に立って叫びました。
「御覧の通りここが大菩薩の一つの頂上であります、これから見渡す処の長尾、榛《はん》の木坂《きざか》、姫の井といった処を通って向うに見ゆるあれが熊沢大菩薩――さあ事実上、どちらが本当の大菩薩峠の頂上かといえば、あちらの熊沢大菩薩がそれでありますが、名分上の頂は此処であります、ここに近代までの物々交換のあとがありました、妙見のお堂も近年まで此処にあったそうです、また昔しは此処に長兵衛小屋というのがありましたそうです」
此処へ来ると制服の学生が一行の東道となってしまいました。
自然、今までの宗教、科学、芸術等の混乱が一時にやんで学生の謙抑な案内ぶりに一同が聴従する。
「長兵衛小屋というのは何ですか」
「それは、此処に小屋をこしらえて木こり山がつをやって住んでいた男だそうですが兼業には追剥と人殺しもやったそうです」
「それは物騒《ぶっそう》だ」
「時に机竜之助が巡礼を斬ったのは何処ですか」
「誰か知っている者はありませんか」
「それは無論此処でしょう熊沢ではありますまい」
「猿が大木から上下して、いたずらをしたように書いてありましたな」
「さよう」
一行が頭上を見上げるとその辺には水ナラ、榛《はん》の木、栗、白樺、古カンバ等の大木があります。
「どうですこの辺で一ぱいやりましょうか」
「いっそ、あの熊沢大菩薩までお出になって
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング