のみが決してあの小説の主人公ではないと著者もいっていました」
「Tsukue があの小説の主人公でないとすれば誰が主人公なのですか」
 馬上の旅人に向ってこの質問を提出すると旅人は迷惑そうに、
「私は原著者ではありませんから誰がどう入り組んでいるか知りません。ただ、Tsukue だけが主人公ではないということを聞きました、多分、著者は個々の人物を主としないで全体の作意というものを主としているのでしょう」
 こういいながら馬から下り立って一行と共に歩き出しました。
「実際、あの男の頭は少し変です――偶然の出来事にも何か必然の意味を持ちたがり、因果応報の存在を信じ輪廻転生《りんねてんしょう》を信じ勧善懲悪《かんぜんちょうあく》が自然の理法なりとして疑わない位ですから、まあ、一種の迷信家でしょうな、ごく頭の古い男です、されば大震災の時も浅草の観音堂が焼け残ったのを無意味に見ることが出来ない一人でした、近代学者の冷笑を買うには申分のない資格に出来ているようです」
と馬上から下り立った旅人は、またしても小説の著者の棚下ろしにかかりました。
「迷信も厄介《やっかい》だが、科学万能の尊大ぶりにも困りますよ」
と一行のうちの一人がいう。
「人間はある意味に於て迷信の動物といえるかも知れません――事実ドコまでが迷信でドコまでが正信《しょうしん》だか人間の力でわかったものではありますまい」
とまた一人がいう。
「飛んでもない事、迷信は我々を無智と野蛮に送り返すが科学は我々をして今日の文明と未来の進歩を仰がしめる」
 また一人が抗議をつづける。
「だがしかし、科学を押し立てて迷信を排斥すると人間はまた科学そのものへ迷信を結びつけなければおかない、どっち道、人間は迷信の動物ですよ」
 二人目のが取りすましていう。
「科学へ迷信を結びつけるというのは有り得べからざる事だ。有へ無を結びつけるように火と水とを混合せしめるように、これは成すべからざる事だ」
「しかし人間はその為《な》すべからざることを為さずにはおらないのがオカしいじゃありませんか……たとえば此処《ここ》に医学博士がある、その医学博士の門に診療を乞うものは博士の有する科学と技術とを信じて求めるのではない、博士という学位に迷信を置いて来るのだ、だから廿分間で素人にも楽々と通読の出来る論文を書いた博士でも博士その名前が迷信の的となり得るに充分である。この迷信が商売の繁昌に有力な処から博士の粗製濫造大売出しが行われる――科学が迷信を助長するのではない人間の本能が迷信なくしては生きられないのではないか」
「さればこそ――科学の必要と権威がいよいよ主張されなければならぬ」
「科学の権威――というが、その権威にもおのずから権限のあることを自覚しなければなりますまい、権限を知る科学者は自分の立場に忠実であると共に、その知られざる世界に対しては無限に謙遜でなければ居られますまい」
「ノーノー、今に科学者がすべてを征服するの時が来ります、宗教の時代は過ぎました、有《あら》ゆる宗教は皆迷信を要素とするのに科学の勝利のみが着々と現実の文明を形成《かたちづく》る。詩は空想の産物で迷信とは隣りづき合いをしている、科学は既に完全に陸上を征服し今や空飛ぶ小鳥の力を奪い水を潜る魚の力を奪い、やがて有ゆるものを征服するの使命を持つ――」
 この一行は今混乱状態となって栗の大木の下で、ごちゃごちゃと中休をしながら相手次第に火花を散して誰一人仲裁の任に当ろうとする者もない。
「科学が完全に陸上を征服したと広言するならば、聞いてみましょう、地上僅か三万|呎《フィート》のヒマラヤの頂はまだ科学の力で究められてはいないはず。地球の海底の最も低い処も南北の両端もまだ科学の力では開かれてはいないはず、つまり科学の力はまだ天上地下僅々五|哩《マイル》の範囲にも達してはいない、肺病も癩病もまだ科学の力では癒《なお》らない、我々は大震災の来ることを予知することが出来ないのみか――その日、その日の天候でさえも科学の力を信頼するわけには行かないではないか、といって僕は科学を否定する者でも軽蔑するものでもありませんがね」
 会社員風の青年がいいました。
「科学科学というけれども由来、人生に対する偉大なる貢献を遂げた発明家はいわゆる学者の中から出ないで無学者の中から出たのが不思議ではありませんか――ワットにしてもエジソンにしても」
「しかし彼らはプロフェサアでなかっただけで事実は偉大なる科学者です、そこで我々は科学の偉力を信じないわけには行かないが科学の傲慢を許すにはまだ早いようです」
 穏健なる紳士がこういいながら立ち上ると一同も立ち上って歩き出したが足よりも口の方が盛んである。
「ナポレオンが露西亜《ロシア》を敗走したのを単に寒気の襲来と防寒具の不
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