山道
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐《かい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三万|呎《フィート》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いでたち[#「いでたち」に傍点]
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大正十何年の五月、甲斐《かい》の国の塩山《えんざん》の駅から大菩薩峠《だいぼさつとうげ》に向って馬を進めて行く一人の旅人がありました。
中折《なかおれ》の帽子をかぶって、脊広の洋服に糸楯《いとだて》、草鞋《わらじ》脚半《きゃはん》といういでたち[#「いでたち」に傍点]で頬かむりした馬子に馬の口を取らせて、塩山からほぼ、三里の大菩薩峠を目ざして行く時は前にいった通り陽春の五月、日はまさしく端午《たんご》の当日であります。沿道の谷々には桃李《とうり》が笑っている、村々には鯉幟《こいのぼり》がなびいている。霞が村も山も谷も一たいに立てこめている。
行手にふさがる七千尺の大菩薩嶺そのものも春に目ざめて笑っている。
大菩薩の山は温かい山でありました。
裂石《さけいし》の雲峰寺の石段の前に通りかかった時分、紳士もあれば商人も、学生もある一行が現われて、いつか、その旅人の馬をからんで峠路を登りながら話なじみになる。
「あの中に、清澄の茂太郎というのがいるのを御存知ですか……般若《はんにゃ》の面《めん》をかかえて絶えず出鱈目《でたらめ》の歌をうたっている子供」
「そうそうそんなのがありましたね」
「あなたは、あの茂太郎の歌を面白いとお思いになりませんか」
「そうですね、読んだ時は変った歌だと思いましたが、よく覚えてはいません」
「あの歌があれが大変なものですよ」
学生のうちの一人、特に思入れがあって七分の感歎に三分の余情を加える。
「大変とは、どういう意味に……」
とBなる青年が振り返る。
「いけない、もう一度、君はあの歌を読み返して見なくちゃ――とにかく、あの歌が大変なものだということだけを頭に置いて、もう一ぺん読み返して見給え」
路《みち》は小流をいくつも越えて雑木林に入る。
「あの小説の著者は、あれで多少は科学の何者、芸術の何者であるかを知っているでしょうか」
「戯作《げさく》、つまり昔の草双紙《くさぞうし》――草双紙に何があるものですか、ただその時、その時を面白がらせて、つないで行けばいいだけ
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