と、こう考えています。で、いつもながらそのお金を貸して頂きたいのです。」
「ええ、そのようなことになるのでしたら、お母さんはどんなに悦ばれることでしょう。ほんに、ほんに!」
彼女は直ぐに答えて、この最後の声を本当に女らしい声に曇らせて、彼には見えない何ものかを遠く眺めるかのように息を濁らせた。
そうして彼は故郷を出る時、彼の母が自活するようにと与えてくれた当時の大金は、未だ予定通り残っているが、それは彼自身が卒業するまでは費いたくはない、なお彼が学校を卒業してしまえば、直ぐ就職するにいいのであるから、そうしたならその借用金は、いままでの分ともに漸次に返済するであろう。それともそれは、彼の母親が直接に返済するかも知れない……それから家の方であるが、それはすでに友人へ頼んで置いたのが郊外の方にあること、そうしてその家は、相応の家賃でしかも間取もいいなどと、彼の言うことを、美角夫人は、女の一種特有な綿密さをもって聞き返しながら聞き受けた。
彼は馬に一鞭あてて、危険な細い峡谷を真一文字に馳け過ぎるように、自分の宿へ帰った。そうして彼は今夜のことを昨夜に変る幸福と称《よ》んでしまった。この有頂天で、彼は美角夫人の先刻の微笑と涙とを幻にすら見た。しかしこの幸福と称んだものは、彼自身が満足した誇りであったろうか。
……………
彼が舌を咬《か》みしめて、三百四十円と書かれた小切手を目にした時、彼女の顔は明かに微笑むともつかず、かすかに歪められていた。そうして彼女は、低い聞きとれないぐらいの声で、その小切手を指差しながら、この余分は彼女の贈りものとして受けて置いてほしいと言った。彼は軽く頭を下げて、直ぐその座を去った。彼女は玄関まで送り出てきて、閾《しきい》に両手をついたまま彼が門を出てしまうまで、彼の後ろを見送っていた。いま彼には彼女のそんな様子がまざまざと見えるような気がしてならなかった。そうして彼女は、「あの男は何をあんなに喜んでいるのだろう、あたしにはその訳が解らない!」とでも考えている様子であった。この考えが彼の気持であるだけ、それほど彼は訳もなく有頂天になって、その帰りには足早にしかも軽々しく歩調を乱していた。
「では御機嫌よう!」
彼は門を出てしまうと後ろを振向かずに、小声で囁《ささや》くように呟いた。
……………
その夜、彼の胸は、有頂天に乱れてはいたものの、与えられた謙遜と同じ程度に暗く濁っていた。彼は梟《ふくろう》の声を耳にしなかった。彼は外面的にはかなり落着いていた。彼は自分の計画の齟齬《そご》しなかったことに興味を覚えた。そうしていまは彼自身の迫害者さえこの非道に似た一種の犯罪を嗅《か》ぎつけなかったと思えば、彼には何とも言えない無思慮の愉快感が感じられた。
その翌日、彼はわきめもふらずに、町の昼の雑沓《ざっとう》をその中心から遠退《とおの》いた。そうして彼がM――銀行で用を達してから約一時間は経過していた。――
彼の債権者は彼へ笑いかけて挨拶した。彼は口を噤《つぐ》んで、眼球を風車のように動かした。しかしその時、彼のポケットには、一日の煙草銭さえなくなっていた。そうして彼の貧しい札にありつけなかった債権者の一部の者は、彼の顔を煩《うるさ》く覗《のぞ》き込んだので、彼は一こと物を言わなければならなかった。
「三日後にするのだね、ではこの次に……いまは仕方がないのだから……」
彼がそれらの債鬼へこう言ったその三日目の前日は、彼が親友青沼の家へ移転する日であった。
*
冷かな風はすばやい忍び足をして、青い空を横切って行った。彼はこんな天候の対照でさえ自分の胸のなかが冷たくなって行くように感じた。
彼は靴音のような喜びと驚きと怖れとの雑った一種の苦しみで、彼の母親から送られた手紙を読んでいた。彼女は明日にでも上京して来るようなことを書いて寄越《よこ》した。そうしてそのことのみをその一本の手紙のなかに口やかましく繰返していた。彼自身にとって必要なことは何一つ書いてなかったと言えるほどであった。こんなことになったのも、美角夫人からの手廻しであろうと、彼は不快になって後悔した。母親は彼が何事もせずに、我儘勝手に歩き暮していると考えている。そうして彼女の考えに間違いはないのであった。ところで、その用もなくぶらぶらと歩き廻ることは、この機会を利用して止めてほしいというのであった。彼自身としても、こう言われるまでもなく、一日一日と遊び暮していることは、退屈であるばかりでなく、更に心苦しいことであるから、このことを思う瞬間からでもすぐ止めてみたい、そうして学校へも出席してみたい。と、彼は願っている。しかし彼はこう自分自身へ願っただけでどうにもならなかった。そうしていつのころからか、彼は彼自身へ向って一
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