…冷たく輝く愛情の窓である眼……額《ひたい》……これらの相似はこの世にあり得る暗合であるかも知れない……しかしその表情?――彼はいま寂然としている自分の心へ言いかけてみた。答えはなかった。彼は冬の日の淡い日光の直射から自分の顔をそむけてこの穏和に幸福なしかし淋しくないこともない思い出とその幻想とに耽っていた。彼には自分が何ものかに唆《そその》かされているという考えが湧いて来た。そうして彼の敵が目には見えないところへ伏線を敷いて待伏せしているようにさえ感じられた。しかも彼女という肉体のない幽霊を使って、彼の蜂の巣のように破れた脳を煽動《せんどう》しているようにさえ思えた。そうしてお柳という女を使って、彼女の肉体を再現せしめている。彼は怕ろしいと思った。
「悪魔!」
彼は思いがけない驚愕に襲われたかのように、床を蹴って立ち上った。彼は獰悪に歪んだ顔を打ちふりながら戸外へ出た。彼は眩暈《げんうん》を覚えた。彼は跛のように蹌踉《よろめ》いた。彼の眸ははじけるように疼《うず》いた。物の色別も出来なかった。頭は叩かれているように痛んだ。そうして最初に彼の眸へ射流れてきたものは、浅く雪に蔽《おお》われた日蔭の屋根であった。彼はまぶしく天空を見上げた。溜息が漏《も》れた。汚く湿った土壌は、遊糸《かげろう》のような日光を貪《むさぼ》り吸うていた。水蒸気がゆらめいていた。
彼は思い出したようにお柳の家の方を見た。お柳は台所の隅で、立ち悩むままに顔を蔽わずにまた泣きじゃくっていた。お柳は昨夜から泣きつづけていたのであったろうか。
彼は再び部屋へ戻らなければならなかった。彼はお柳へ向けて湧きはじめた思いやりを殺さなければならなかった。彼は彼女を恐れた。
―――――
「お柳は祖父《じじ》さまが死んだので泣いてばかり居ります。」
その日の夕方、彼は井戸端の会話の一節に、こう言うている老婦の言葉を聞いた。
お柳の祖父? 彼はついぞその人を見かけなかった。
「永く床についていた人であろう?」
彼はふと自分の故郷の言葉で、死の意味を現わす言葉を無意識に呟いた。
「床?」
彼は再びこう呟いて、自分自身を顧みた。そうして彼は彼女の祖父の死よりも、彼女の悲観にも増して、この床と言う言葉に悩まされた。彼は自分の躯が、裂け、破れ、乱れ散るように、悩乱した。そうして彼は、自分が昼も夜も弁《わきま
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