してこの間にあって、彼は田舎の母親へ数回手紙を出しそこねた。――身のおちつくまでお待ち下さい――というのが、彼の母親への文面の主要なるものであったが、しかし彼にはどうしてもそのことが書き流せなかった。そのうちについ書くことが消えてしまい、そうしてとうとうそれは忘れるともなく全く忘れ果《はて》てしまった。
―――――
私には悲しく思われます。あなたが決して嘘を申されたとは思いませんが、此度《このたび》あなたのなされた態度は無情なものです。私は親切を売物にしたのではありませんが、すべて水の泡となって消えたのでしょうか。善は急げとか申して居ります。一刻も早くお話のこと実行なされては如何《いかが》です。母上からは三度程お手紙がありました。……
―――――
彼は横に腹這いながら美角夫人からの附箋づきの手紙を読んでしまって、思わずも……――これは全く――……と、訳の解らない一種の不快をおさえるかのように、彼自身へ言ってみた……――おれは母の信用を質入したようなものさ。ところで、まだその期限は切れそうにもないぞ。――……
彼には最早自分の母親を呼び寄せるだけの望みも楽みもなくなっていた。彼の心も身もともに、闇が冷たい風とともに狂おしくひしめき合っているそのなかに彷徨《さまよ》うているかのようであった。
*
―――――
南と北から家屋が建てこめているため、常に日光に遮られている薄暗い道路の行当りに、芥溜《ごみため》が見える、そこにミノルカではないが大きな黒い一羽の鶏が餌をあさっている。彼はそこを目当に歩いている。そこまではかなり長い道程があるらしい。左右の家は書割舞台ででも出来ているかのように、絶えず震えている。歩いている彼ははたと立ち悩んだ。彼の足元には五銭白銅貨が、一ツ、二ツ、三ツ、四ツ、……十一、十二、十三と数えただけおちていた。鈍く光って彼の瞳をひいた。彼はその白銅貨を拾おうともせずに、頸《くび》を傾けながら歩きはじめようとした。その時彼は芥溜の方へ向って、左手にあたる一軒の屑物屋を見つけた。蒼白い顔の小娘が障子の穴から戸外を覗《のぞ》いていた。彼は彼女をちらりと一瞥《いちべつ》した。彼はびっくりした――この瞬間、彼の暁の夢は音もなく影絵のように崩れて消えてしまった。
彼はひょっこり夢みたこの夢を余り気持のいいものとは思わなかった。十三個の
前へ
次へ
全46ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング