一瞬、彼の瞳は曇ったが、泣いていたのではなかった。
「おれの憧れは憧れ以上のものではない」
彼は身内を顫《ふる》わした。彼の疲れた瞳には軽い微笑みの色が浮いた。
「おれの才能はペテロを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
彼の眼は綱へ平行して走っていた。
「おれの才能はサルフィユを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
彼の掌には油汗が滲《にじ》みでていた。
楽隊
鯨波
拍子
「フレンド、シップ、ダンス」
「おいらのサルフィユ、しっかりせえ。足元をしっかりせえ」
ペテロは相手を少々馬鹿にしてかかった。サルフィユは先ず彼の剣を突き出した。
カチン
火花
ペテロは軽く腰を引いて、相手の顔を睨《ね》めつけた。
カチン
火花
ヒュッ――ヒュッ
火花
火花
汗――
熱狂
動悸
熱い呼吸
血の熱狂
肉の躍動
汗
熱い呼吸
心臓の鼓動は綱の上に波打った。
声――
声
怒
怒
火花
憤怒
「おいらのペテロ」
「おいらのサルフィユ」
「しっかりせえ」
「それッ」
「右だ」
カチン――カチン
恐るべき光景
笑うべき光景
観客は両人の事情を露さえ知らなかった。
楽しむべき光景
恐るべき光景
観客は両人の決闘を演技の一つと思った。
「ヤッ」
綱は波のように弾んだ――空気は血の色をして閃《ひらめ》いた。
「畜生」
「右だ」
カチン――カチン
火花は散った。
サルフィユは背撃を食って、身体の中心は落下に奪われた。瞬間、彼はもんどりうって、両手でしっかりと綱を掴《つか》んだ。綱は大波を打って、空気を裂いてはげしく揺れた。
ペテロも亦《また》、はずみを食って転落した――しかし彼は頭部を倒《さかさ》にして、足をもって綱にぶらさがった。綱は弾んで鳴った。
拍手
鯨波
観客は荒された丘の畑のように乱れ、どよめくままに鯨波とともに総立になった。
渦巻く声――
渦巻く声――
高翔する声――
空気は意識あるもののように鳴った。
この記念すべき光景――
この記念すべき言葉――
狼煙《のろし》のように、サルフィユの言葉は空中へ突進した。
「満場のみなさま、御覧下さい。ペテロの靴の踵《かかと》に附いている金具を御覧下さい。ペテロ君が、きょうまで、綱の上で暮して来た金具を御覧下さい。おれよりも
前へ
次へ
全46ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング