ようとは夢想だにしていなかった。彼自身には、他人から軽蔑されるだけの行為はあったにしても、それは自己の我執を刺戟したまでのことである。その行為の動機は、それこそすべて、他人の冷淡と卑劣と羨望《せんぼう》と臆病とから生れる彼自身の恐るべき不安を愛することに根ざしてはいなかったであろうか、と、こう考え至るなら、彼にとっては、最早こんな事柄はどうでもいいことになる。いまの彼にとっては、何でもないことである。いまや彼は自分の敵に向って宣戦を布告するのであるから。
「宣戦を布告する……どんなものだろう?」と彼が肩をそびやかして威丈高《いたけだか》になるのに対して、「お前は馬鹿だ!」と誰かがその声のない言葉を舌の先きでまるめこんでしまった――彼は歩きながらこんなことを繰返し惑うていた。突然、彼の歩調は乱れはじめた。彼は息をはずませた。彼は坂を登りかけていた。車はためらいがちに進んだ。彼は見るともなく前方を見ていた。青沼白心は坂の上で、頭上高く手を打ち振りながら、彼へ合図をしていた。
「君、遅いね、また君は悲しそうな顔をしているよ!」
彼は親友のその合図を彼自身の言葉に飜訳《ほんやく》してみた。
その夜、彼は床へ横たわりながら、襖越《ふすまご》しに親友と次の会話を取り交した。
「この家は坂の頂上にあるのだね?」
「そうでもないよ、少しは離れてる。」
「……いまにこの家は坂の上から転落して行くぞ、おれの躯と一緒に……」
彼は最後に自分の胸のなかで思わずも言ってみた。
*
日毎に彼は青沼の学校帰りが待たれると同時に、親友の顔を日の光のなかに見てみたいと思う心が劇しくなりはじめた。そうして彼は町の方へも出掛けてみたいと時折はひょっくりと思い出すこともないではなかった。こんな場合、いつも彼には夜の町を彷徨《さまよ》うている彼自身の姿が聯想された。そうして彼は戸外の光を煩《うる》さいまでに浴びているかのように、床のなかで転輾《てんてん》としていた。しかし彼が親友の家へ来たその翌日から、彼自身の心に求めようとするもののあらゆる機会は失われていた。
「少しは早く床を離れて、そこらを散歩してみてはどうか。」と、言ってくれる親友の心持は、彼にもよく飲みこめるのであるが、彼は一言、「ありがとう。」と、言っただけで、口を噤《つぐ》んでしまう。そうして彼は親友の外出する跫音《あしお
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