の本がソヴェートの建設プランの下に生じた必要に応じて生まれたものであろうことが推定される。事実ソヴェートに於ける実際問題が至る処引き合いに出されているのである。だがそれと共に、マルクス、エンゲルス、レーニン・等の分析的方法及び統計的方法の理論及び運用に就いての論証的・理論的・関心も非常に高い。女史は統計に関係する諸根本概念を理論的・哲学的・に根本から検討してかかる。かくてヘーゲルの「量の弁証法」から統計乃至統計方法及び統計学の規定を導いている。
第一章「量の弁証法」に於ては、統計の本質をば量の質への転化とその逆という、弁証法の根本的一規定から鮮かに展開している。統計とは一定の質を特色づける一定標式によって、この質をもつ一群の物質の量的規定を発見することであるが、併し同時に、量の一定以上の変化は新しい質をなすと見ることによって初めて、大量集団相互の間の本質的分類が可能になるのである。――量質の関係に就いての弁証法的理解を欠く時は、大量集団は徒らに「全体的」な総体と見なされて、それを「部分的」な総体に分析することを見失う。と同時にこの総体を発展過程の下に捉えて行くことが出来なくなる。かくて農民なら農民の層の内部に於ける本質的な層的差別を無視した「平均的」農民の如き無意味な観念が生じる。農民層の内部に於ける推移変化も之では理解できない。
このことは処で、統計が何か先天的で数学的なものだという観念論的迷信と関係がある。統計に於てまず第一に大切なのは、統計の対象たる大量集団が仮に社会現象にぞくするならば、それの政治的特質の認識であって、それに就いての単なる数学的遊戯ではない。統計を先天的で数学的と思い込むことは統計の実際的適用を全くの無意味へ導くに過ぎぬ。――この観点は第二章「謂ゆる大数法則について」と第三章「統計学及び弁証法に於ける偶然性の概念」の二章に於て具体化される。
第二章は、大数法則が含む処の定理や命題が、決して形式的な数学的理論の枠内に尽きるものではなくて、その哲学的意義から検討されねばならぬ所以を説き、先に論理学的に述べた点を統計の基本観念たるこの大数法則に集中して叙述する。第三章は統計の基礎となる処の偶然性・チャンス・及びプロバビリティーに関する諸家の哲学的・数学的・統計学的・諸理論の批判であり、ボレル(「ボーレリ」とあるはボレルであろう)・ミーゼス・ボーレー・ケーンズ・同志ゲッセン・等の最近の所説を、ラプラス・ケトレ・クルノー・等の古典的理論から跡づけて検討している。プロバビリティーに就いての先験(先天)説、チャンス乃至偶然性の背後に横たわる或る神秘的な量の想定、及び夫に常に伴う偶然性に関する主観主義説、等に対する唯物論的な克服が盛られている。
最初述べた量の弁証法としての統計の観点は、統計なるものの弁証法的理解を提供したが、それは非弁証法的な統計的方法の根本的誤謬を明らかにすると共に、弁証法的な統計的方法[#「統計的方法」に傍点]と分析方法[#「分析方法」に傍点](之が弁証法の普通の場合だ)との相互的で相対的な役割をも理解せしめる。之が第四章「科学研究における統計的方法と分析方法との相対的役割」である。之は科学の方法論から見ても重大な内容で、分析方法(所謂弁証法と呼ばれている方法[#「方法」に傍点])が統計的方法にとって如何に基本的であるか(マルクス『資本論』に於ける模範的な分析方法とレーニン『ロシアに於ける資本主義の発展』に於ける模範的な統計的方法とを見よ)、そして二つの結びつきが何であるか、という根本問題に触れる。
第五章「経済学と統計学」とは前章の問題を特に社会科学・経済学・に就いて詳論したもので、次の要点を以て結ばれている。曰く、経済生活は何等の「論理的」恒数なるものを知らぬ。経済学者=統計学者の取扱うべきものは正に「経済的」恒数であることを忘れてはならぬ(ガウスの曲線やピアソンの曲線も純然たる数学的要求に従ったもので経済学にとって不充分を極めたものだ)。そして最後に、ソヴェートに見るような組織的経済の建設への推移は、経済統計学に対して全く新しい道を拓くものである、というのである。
さて以上のように統計・統計的方法・統計学・経済統計学・に就いての、哲学的・論理学的・科学論的・な研究が本書であり、唯物弁証法的観点からした切実な批判が本書である。抽象的なフラーゼがなく実質的で冷静周到な内容のもので、必読の書物ではないかと考える。日本に於ける唯物弁証法は具体的であるなしよりも、寧ろ具体的な実際的なテーマ[#「具体的な実際的なテーマ」に傍点]を取り上げていないと思う。量質の弁証法などもそうだ。この点この書物の課題だけでも大いに教える処はないだろうか。それから吾々は確率[#「確率」に傍点]に就いての数学的著述や統計学[#「統計学」に傍点]に就いてのハンドブック的なものには事欠かないが、統計的方法[#「統計的方法」に傍点]に就いて検討したものになるとよい本を沢山知ってはいない。統計[#「統計」に傍点]なるもの自身の理論について書いたものは一層身辺に乏しい。まして之を論理学[#「論理学」に傍点]の広範な観点から根本的に取り扱おうとしたものはなお更である。――とに角本書が提供するものは吾々の理論的野心をかき立てるに足るテーマだと思う。内容の如何に拘らず注目しなければならぬテーマではないだろうか。
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(一九三六年・ナウカ社版・四六判二一二頁・定価八〇銭・スミット女史論文集『ソヴェート統計学の理論と実践』の中の第一編)
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6 庄司登 松原宏 訳編『ファシズムの諸問題』
一九三五―六年の『モスコー・ニュース』、『レーバー・マンスリー』、『アグラール・プロブレーメ』の各号から取捨選択して訳出したもの。パーム・ダット「ファシズム汎論」、エル・マジャール「ファッショ化の型について」、パウル・ライマン「都市中間層論」、カール・ラデック「ドイツ・ファシズムの経済政策」、エー・ヘルンレ「ドイツ・ファシズムの農業政策」(之は一九三四年のもの)からなり、「ナチスの対中産階級政策」を付録としている。
ファシズムに関する重要な代表的著作の邦訳は之まで大体三つを数えることが出来るようである。第一はシュナイダー『ファシズム国家論』(中央公論社版・戸野原・佐々・訳)、第二はダット『ファシズム論』(叢文閣版・松原訳)、第三はピアトニツキー『ドイツ・ファシズム論』(叢文閣版・吉田訳)である。他に参考に値いするものとして、今中次麿著『独裁政治学叢書』全四冊をも数えることが公平だと思う。唯物論全書の『ファシズム論』(今中・具島・著)は、『図書評論』七月号(一九三六年)の筆者によると、あまり尊重されていないようであるが、決してそういうものではないと私は思う。なぜならファシズムのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]の解説とファシズムの法制政治機構[#「法制政治機構」に傍点]の纏った解説としては、あれ程便利な本は手近かにはないだろうからだ。書物の価値は書き方の趣味や慣習だけに立って判断すべきものではなくて、役立つかどうかということからも、リアリスティックに評価されるべきだ。――さてシュナイダーの本はイタリアのファシズムを取扱っているがもう時代が古い。ダットのものはイギリスの事情を詳説しながら国際的に問題を提起した名著である。ピアトニツキーのは眼界がドイツの情勢に限定しているが、実に卓越した教訓に充ちている。だが極めて特殊な形式を持っている日本ファシズムに連関して、吾々が日頃懐いている多数の未解決な問題に対する解決の観点を、この種の叙述の内から導き出すことは、事実あまり容易なことではないだろう。日本ファシズムに関して特に要点をなすものは、ファッショ化の現象であり、「半ファシズム」や「前ファシズム」の現象なのである(そして之に連関して文武官僚や中間層の問題だ)。吾々はかねがねこれ等の基本問題をば、要点を強調するという形に於いて抽象的な定式の下に、理論的に用意して呉れないかと考えている。――処でこういう要求を充たすものが、恰も本書なのである。
ダットはまず初めに「ファッショ化」と「社会ファシズムの諸問題」とに筆を集中している。ファシズムの所謂「定義」にとってはこの観点は必要欠くことの出来ぬものなのである。之は最近のファシズム現象の分析には大切な要点だ。それと共に、最近のファシズムの分析が要求する課題として、ダットは、第一、ファシズムの経済的基礎[#「経済的基礎」に傍点]の取扱いの深化、第二、ファシズムの大衆的基礎[#「大衆的基礎」に傍点]とその階級的デマゴギー[#「デマゴギー」に傍点]との関係を明晰にすること、第三、ファッショ化過程の多様性[#「ファッショ化過程の多様性」に傍点]のより立ち入った分析、第四、ファシズムと植民地諸国[#「植民地諸国」に傍点]の問題、第五、社会民主主義[#「社会民主主義」に傍点]とファシズムとの関係に関する新しい諸問題、第六、中間層[#「中間層」に傍点]の問題の重大性をより以上認識すること、を挙げている。次に彼は「半ファシズム」、「前ファシズム」、「隠蔽されたファシズム」、等々の過渡的諸段階のカテゴリーを厳正に使用する試みを与えている。それと共に、「各国にとって単一なファッショ化方針などがあるものではない」ことを強調することによって、ファシズムに就いての生きた実際的な観念が読者に与えられるだろう。之は「日本ファシズム」の理解にとって極めて重大な点だ。
マジャールの論文は世界各国のファッショ化過程についての有益な概括から出発している。云わば世界ファシズム小論と云っていい。次のライマンの論文と共に、ダットの「汎論」に帰するものである。ライマン「都市中間層論」ではファシズムの大衆的基礎[#「大衆的基礎」に傍点]とその階級的本質との食い違いから問題が提起される。そして社民とマルクス主義とによる中間層論の比較があり、やがてインテリゲンチャ論に及んでいる。勿論ここではインテリゲンチャなるカテゴリーを中間層の一種などに数えているのではない。中間層外のブルジョア的又はプロレタリア的なインテリゲンチャを想定した上で分析が施されるのだ。「知識階級に関してはそのうちのブルジョア分子は問題外として、注意すべきことは賃金労働に従事している層と、未だに独立の小ブルジョア的生活を営む者(自由労働者)とを区別することである。」(一二七頁)。ラデックの論文はドイツ・ファシズムの経済政策が如何に戦争[#「戦争」に傍点]にその最後のはけ口を求めねばならぬかを明らかにしている。ヘルンレの論文は訳編者の言葉によると、「ドイツ・ファシズムの農業政策を取り扱った論文の少い折柄相当参考になる。」要するにこの書物は、可なりかゆい処へ手の届いたという感じを与えるもので、日本のファシズムを原則的に分析するためには必読の書物だと云わねばならぬ。そう云っただけで「批判」はしないのか? と問われるかも知らぬが、之は実際的に充用[#「充用」に傍点]する前に「批判」してかからねばならぬ程の不満を呼び起こすものを、含んでいないだろうと思う。出来るだけ有効な示唆を惹き出す方が、この際実際的な読書法だ。
(一九三六・叢文閣版・四六判一九二頁・定価九〇銭)
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7 T・E・ヒューム 長谷川鉱平訳『芸術とヒューマニズム』
ヒューマニズムの声の高い時にこの本を選んで訳したことは、意味のあることだ。なぜなら之は要するにヒューマニズムに対する反対をとなえた本だからである。著者はベルグソンの理解者として知られているものであるが、本書はその遺稿集である。カトリック主義に立ちつつモダーニズムを包括しようという処に、現代に於けるヒューマニズム[#「現代に於けるヒューマニズム」に傍点]との対抗を必然的に結果しなければならぬものがある。恐らくこの本はその代表的なものだろう。主論文は「ヒューマニズムと宗教的態度
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