リレイ・ブルーノ)と十七世紀(ベーコン・ホッブズ・ロック)(デカルト・ガッサンディ・ベール・スピノザ)及び十八世紀(コンディヤック・ラ=メトリ・ディドロ・ドルバック・エルヴェシウス)と十九世紀(フォークト・ビュヒナー・モレスコット)を概論したものであり、すでにその主題から云って、日本ではあまり之まで見られなかった処のものである。
唯物論の歴史的発展の検討は、今日の思想の科学の欠くべからざる一つの課題であるが、唯物論全般に関する歴史的研究は極めて乏しい。日本に於ては『唯物論全書』の内の三冊(本書と前掲『現代唯物論』と松原宏氏『唯物論通史』)が主なものだ。特に唯物弁証法の研究のためにも欠くべからざるものはフランスの唯物論の研究であるが、之が又極端に乏しいのである。この頃大アンシクロペディスト達に就いての多少の研究が発表されているし、又一二の人物やテーマに就いての研究ならば絶無ではないが、まだ唯物論史の体裁をなさぬ。フランス唯物論者のテキストとしては中央公論版・杉捷夫訳『フランス唯物論』が重宝なものだ。森氏の『近代唯物論』の有用な点の一つは、確かに、このフランス唯物論の歴史を極めて手短かに要領よくまとめたことであり、而も之を中心として前後の近代唯物論の諸時期段階を歴史的に又体系的に叙述したことだ。この点まで吾々の切望にも拘らず得られなかった内容を盛ったものが本書である。本書はその存在の意義から見て目立って然るべきものだと思う。
叙述の方法は唯物論的である。と云うのは唯物論的な思想学説理論の発展を、単にそれ自身の動因に基く発展として見るだけでなく、之を出来る限り時代の根本的諸条件(経済的・政治的・社会的・其の他一般文化上及び思想家生活上の)に照して説明しようと企てられている。云うまでもなくこうすることによって、思想の展開の必要性が合理的に呑みこめるのであり、近代唯物論への移行の必然性を納得出来るのである。大冊子とは云えないから詳しい思想分析も社会事情の分析も不可能なわけだが、要点を指摘しているから今後の研究の要領を指導出来ると信じる。再版の時は誤植を訂正のこと。
(一九三五年十月・三笠書房版・新四六判・二六一頁・定価八〇銭)
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2 熊沢復六訳『小説の本質――(ロマンの理論)』
ソヴェートの『文芸百科辞典』の「ロマン」の項を起草するために行なわれた研究報告と討論(一九三四―五年)を編纂したもので、報告者はルカーチ(最初の二八頁)、討論者の主なるものはシルレル・ヌシノフ・リフシッツ・ペリベルゼフ・等(総数十数名)。報告者ルカーチによると、小説即ちロマンの特色は夫がブルジョア社会の文学ジャンルであるという処に存する。ロマンはエポス(叙事詩――古代英雄詩)に対比させられる。古代ギリシアのエポスは個人と社会とが分裂していない時代の意識を反映するに適した文学ジャンルであって、そこでは、個人が社会から圧迫されて自己の身辺を中心とし散文生活を送らねばならぬというような社会条件はまだ存在しないから、英雄というものが文学的に可能であり、英雄の物語りが詩的表現を取ることが出来る。之がエポスである。然るに、ブルジョアジーの社会に於ては、個人は社会から分裂し、個人はもはや社会を代表する英雄ではあり得なくなる。英雄譚は不可能となる。個人は社会によって圧迫されるからだ。ここにロマンがこの時代の特有な文学ジャンルとなる所以がある。第一はブルジョア社会勃興期のロマン(ラブレエやセルバンテス)、その様式的特徴はリアリスティックな空想性[#「リアリスティックな空想性」に傍点]にある。第二はブルジョア社会の初期の蓄積的発展期のロマン。よりリアリスティックとなり、ブルジョアジーの積極性を表現した積極的主人公が現われる。デフォー・フィールディング・スモレットなど。第三はブルジョア社会の矛盾が完全に展開され、併しまだプロレタリアートの自立的進歩の始まらぬ時期のロマン。ブルジョアジー生活の散文性が明白となる。ロマンティシズムが国際的に発生する。この時期の大ロマン作品はこのロマンティシズムへの傾向を克服することに努力する(バルザック)。資本主義の矛盾に就いての認識の増大、その矛盾の雄大な描写は、作品の意志を裏切って、作品のあらゆる積極性を破壊する。第四はロマン形式の崩壊期。プロレタリアートの自立的進出の始まる時期。ブルジョアジーとプロレタリアートとの争闘がテーマとなる。リアリズムの偉大な遺産と伝統とは腐敗に委ねられ、荒廃した主観主義でなければ空疎な客観主義が、ロマンの内容となる。社会は硬化したものとして描かれる。之に対するプロレタリア側からの新しいリアリズムの動きが発生する。かくてロマンの形式の決定的崩壊さえ始まる(プルスト・ジョイス)。
かくてロマンはブルジョア社会に固有な文学的ジャンルであり、ブルジョアジーの台頭と共に支配的となり、ブルジョアジーの没落と共に崩壊に瀕する。社会主義的リアリズムはこのロマン形式の崩壊を条件として発展せねばならぬ。その時このプロレタリア的文学的世界観と手法とは、ロマンとは異った或るジャンルを必要とするだろう。社会主義社会の特色は、個人と社会との間にギャップの代りに組織があるということだ。そこでは再び英雄的行為が可能だ。して見るとこれは再び(併し全く新しい条件での)エポス的形式に達した時期だろう。ロマンはエポスによって取って代られねばならぬだろう、とルカーチは結論している。
だがここで新しいエポスと考えられるものが何であるかは必ずしも明らかではない。社会主義的リアリズムに基くロマンがエポス的な契機に富んでいることは著名な事実だが、併し今問題になっているのはエポスというジャンルのことであって単に内容上のモメントのことではないからだ。ここに一点疑問はあるのだが、ルカーチの特色づけは美学的に且つ文芸史的に、極めて的確だろう。無論古代以来ロマンはあったとか、ロマンにも色々の分類が必要だとかいう、歴史上や形式上のトリビアリズムを以てルカーチのテーゼを一応批判することは出来ようが(ペリヴェルゼフの如き)、本質的なことは、事実の羅列ではなくて事物の根本的な特徴づけなのである。ロマンの本質がブルジョア社会の文学ジャンルであるというテーゼが、卓絶した真実であることは、リフシッツやグリーブやシルレルの討論によって解明されている。そしてロマンの要素は今後と雖も止揚されて大いに用いられて行くものと思われている。
本書が日本に於ける文芸活動(創作・文芸批評・文芸学)にとって根本的な指針となるものとして、多大のセンセーションをまき起こしたことは極めて当然だ。近来の文芸論上の収穫の白眉と云わねばならぬ。と共に参考になることは、ソヴェート・ロシアに於けるこの種の理論的検討が、極めて大衆的内容であるにも拘らず甚だ水準が高いということだ(コム・アカデミー文学部編)。
(一九三五年・清和書店版・八十銭)
[#改段]
3 シュッキング著 金子和訳『文学と趣味』
[#ここから5字下げ]
(L. L. Schucking の『文学的趣味形成の社会学』・一九三一年・の訳――初版は一九一三年の『文学史と趣味史』)
[#ここで字下げ終わり]
一言にして云えば文学の社会学である。シュッキングに於ては文学そのものが初めから云わば社会学的な観念の下に理解されている。彼は之を趣味[#「趣味」に傍点]として理解するのである。彼は普通の文化理論で用いられている時代精神なるものをもこの趣味に還元し、そこに文学(及び一般芸術)の内容を見ようともする。この点、このドイツの社会学者はフランス文化の影響の下に立っているようだ(特にブリュンティエールの影響が大きいらしい)。考えて見れば、一体趣味というのは一般に思想が日常生活に端的に現われた断面のようなもので、趣味や風俗を離れて思想の現実の姿は捉え難いとも云うべきであり、今日まで思想や文学に就いて、趣味の問題を真面目に取り上げなかったことは確かに至らない所以だったろう。併しそれはそうでも文学や思想を趣味に帰着させることは、実は文学の社会学化であって、文学の美学乃至芸術学的な観念としては不充分だと云わねばなるまい。
だが文学の観念それ自体が社会学的に造られているから、文学の諸現象に就いてのシュッキングの着眼点には、到底普通の文学者や評論家や美学者の及ばないものがあるとも云える。例えば今日わが国のブルジョア文壇でも多少話題になっている芸術家の社会的地位とか、芸術と大衆との関係――大衆芸術の問題や批評家としての大衆の意義――とか、文芸家の活動形態や活動施設(協会や図書館其の他)とか、芸術とジャーナリズムとの関係や、ジャーナリズムの文芸上の意義とか、そう云ったものが最もアデケートの形で、と云うことは即ち社会学的にという事だが、取り上げられ、その相当実証的な材料と歴史的な考察とが提供されている。文学の社会性というような問題を考えるについて、一応の出発点として参照を必要とするものだと考える。無論吾々は文芸に限らず一般にイデオロギーの理論に於て、之を単に社会的に[#「単に社会的に」に傍点]分析する段階に止まることは出来ない。之を美学的価値に於て理解すべく社会的分析を行なうことこそ史的唯物論によるイデオロギー論でなければならぬ。その限りシュッキング流の方法は社会学主義でありまだ少しも社会科学的ではない(この点F・シルレル『文芸学の発展と批判』――熊沢復六訳――のシュッキング批判を見よ)。だがシュッキングの特色は、彼が文芸そのものを初めから[#「初めから」に傍点]趣味という社会学的な形態[#「社会学的な形態」に傍点]の下に理解していることだ。それだけに彼が夫に就いて行なう社会学的分析は普通の社会学的分析に較べてズット活き活きした内容をもつことが出来る。ここに価値があるのだと思う。なお趣味という観念を文芸学上の一カテゴリーとしていることは、趣味という言葉を出鱈目に使っている日本人にとっては甚だ教訓的だと考える。
(一九三六年・清和書店版・四六判一七一頁)
[#改段]
4 エス・ヴォリフソン著 広尾猛訳『唯物恋愛観』
(『唯物弁証法的現象学入門』)
この書物の価値はソヴェートに於ける性関係の諸事情を知ることが出来るということが第一であり、第二は唯物論による恋愛・結婚・婦人・其の他の問題の現代に即した解明を見ることが出来るということである。コロンタイの『新婦人論』(ナウカ社版)と並べることが出来るだろう。尤もコロンタイのに較べて内容はやや見劣りするのであるが。
併し方法上の問題があると思う。ヴォリフソン教授はミュラー・リアーのゲネオノミー(Geneonomie)(生殖学[#「生殖学」に傍点])なる学術名を採用している。併しこの生殖学なるものはミュラー・リアーの代表的なブルジョア社会学的[#「ブルジョア社会学的」に傍点]な比較法と切っても切れない立場を云い表わしてはいないかと思う。そうするとマルクス主義的ゲネオノミーとか唯物論的ゲネオノミーとかいうのも変なものではないかと思う。この方面の唯物論的研究があまり進んでいないから、こういう一時的な代用物も無意味ではないが、とに角本物でないことは忘れてはならぬ。
それから訳であるが、現象学[#「現象学」に傍点]というのは何かと色々考えて見たが、ヘネオノミー[#「ヘネオノミー」に傍点]の訳であるらしい。処でヘ[#「ヘ」に白丸傍点]ネオノミーは、ゲ[#「ゲ」に白丸傍点]ネオノミーの発音の仕違いだろうと思う(ロシア語ではHとGとが一つだから)。それにしてもなぜ之を現象学[#「現象学」に傍点]と訳したかは私には判らぬ。一寸気になるので読者への注意までに。
(一九三四年・ナウカ社版・四六判三二〇頁・部分訳)
[#改段]
5 M・N・スミット著 堀江邑一訳『統計学と弁証法』
スミット女史はソヴェート連邦に於ける統計界の実際家であるという。それだけのことから見ても、こ
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