w主義工業の特徴は、高賃金低コスト[#「高賃金低コスト」に傍点]という処にあるという。資本主義工業は、一方に於て出来るだけ低賃金を求める。と共に他方、工業立地に就いて情実や俗間常識に左右されたり何かして、結局高コストについている。その反対が科学主義工業であるという。
この際の科学主義とは、工作機械や測定機械の高度の機械化、技術化、によって、職工の熟練に俟つ部分を極度に小さくすることである。之によって如何なる不熟練工も、容易に高度の加工工業や最高の精密工業に極めて短時間で熟達出来る。
更に又、高度の加工精密部分品工業の如きは運賃が相対的に少ないから、コスト計算上、農村工業として最も適切である。それ故これに科学主義を適用すれば、理想的な農村工業となる。之はすでに方々の理研関係の農村小工作場で実験ずみだという。
科学主義工業の観点に基いて「熟練工」の観念を批判するなどを含めて、甚だ同感であるが、科学主義的農村工業は、なぜ一体高賃金であり得ねばならぬのか。著者は単調無味な労働に耐え得る「農業精神」なるものが、「能率」をあげるのだとも云っている。そして工業精神の侵入は資本主義工業の個人主義を植えつけることで農業精神の破壊だという。之は余り「科学主義」的な表現ではない、素より高賃金の説明にもならぬ。
農村は低賃金だから、という博士の数年前までの論拠を、今の博士は恥かしいものだと云っているが、それにしても高賃金とならねばならぬという結論は、どうも必然性を欠いている。思うに、低コストはいいとして、高賃金の方は、「科学主義」以外の問題であったに相違ないのだ。
[#改ページ]
※[#ローマ数字2、1−13−22] 論議
1 現代文学の主流
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「文化擁護」問題の報告書――(レジス・ミショオ著・春山行夫訳『フランス現代文学の思想対立』)
[#ここで字下げ終わり]
本書については、私はすでに一二の原稿を書いたから、重複は避けたいと思う。この本を読んでまず第一に気がつくのは、フランスに於ける文学なるものが、如何に直接、文化全般と密接な連関に立っているか、ということである。ここでの文学は、哲学や科学や政治と、或るものは意識的に、或るものは無意識的に、だがいずれにしても直接に、関係を持っている。文学が理想であり文化となっている。云わば、思想や文化が文学から理解されるのではなくて文学が理想や文化から理解されねばならぬように見える。
だから次のような言葉も意味があるわけだ。「フランスの思想は過剰なフランスの文学によって誤導され、腐敗させられたと人はいうかも知れない。事実数多く思想家達は平穏を求めてリリシズムに逃避して了った。このことがロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、及び『勝利』、『聖なる顔』のエリイ・フォール、『人生について』のアンドレ・シュアレスのごとき知的指導者達の失敗の一部を物語っている」云々。
文学が思想問題として、従って又文化問題として、全幅の意義を発揮しつつあるのは、現代の世界文学の国際的特色であろう。元来、旧くから文学はそういうものであった筈だが、それをハッキリと自覚しなければ文学として安心出来なくなったのは、現代の世界情勢の特徴だ。外交・政治・さえが一方に於ては思想的な課題となりつつある。文化問題としての資格をさえ持って来ている。そのことはつまり、逆に云うと、文化や思想が、それ自身ですでに政治的・外交的・意義を国際的国内的に持つようになったことを意味するのであるが、そこへ文学を持って行くと、文学は正に思想として、文化として、政治や外交と直接関係を生じるのである。フランスに於ける文学のそうした事情を最もよく告げているのがこの書物だろう。
併しフランス文学がこの関係に於て、吾々に特別の文化的政治的関心を呼び起こすのは、云うまでもなく「文化擁護」運動を介してである。だが之は勿論、決してフランスだけの問題ではなく、又フランス文学だけの問題でもない。世界文化全般が、「文化擁護」という焦点をめぐって、回転している。フランスはその回転軸の一つとなろうとしつつある点に於て、特に代表的なのだ。
ミショオはアメリカとフランスとの文学に精通したフランス人であり、本書はアメリカで英語で出版したものだ。大体に於て左翼的な進歩主義者であるが、右翼作家(例えばモーリス・バレースやシャール・モラスなど)に対しても充分な理解を示すことによって、却って最後的な批判を加えているとも見ることが出来る。本書は文化擁護問題の一報告書として記憶に値いする。日本の現代文学・芸術・哲学・科学についても、こうした思想的文化的報告書があっていいと思う。かつて土田杏村は英語でこの種の本を一冊出版した(著者自身による邦訳も出ている)。だがこの文化専門家は残念ながら思想的評尺の然るべきものを持たず、批評家に欠くことの出来ない警抜さと烱眼とを持たなかった。真の思想の力関係を見て取ることが出来なかった。そしてまだ、当時は充分そういう機が熟してはいなかった。
今や吾々は、「文化問題」なるものが今後有つだろう社会的重大性をより一層立ち入って理解しなければならぬ。本書はそういうための刺激となるだろう。
[#改段]
2 哲学書翻訳所見
この間或る人に会った所、日本で出版された科学史の良いものは何かと尋ねられた。私は即答に窮したので、岩波版のセジウィク・タイラーのものや矢島祐利氏の諸著作などを挙げたのだが、質問した人はなぜかあまり満足しなかったようだ。私は一般の心ある読者がどれ程思想の歴史を書いた纏った書物を欲しているかに、又同時に、そうしたものが日本では如何に数が少ないかに、初めて気がついたような気がするのだ。この点、哲学の歴史に就いても大した変りはないが、併しここでは事情はもう少しはいいだろう。
この頃はユーベルヴェークの大きな哲学史も翻訳されているようなわけで、この方面の読者は愈々恵まれて来たようだ。K・フィッシャーやエルトマンのものも系統的に訳されていい頃だろう。ところで云うまでもなく、こうした科学的な哲学史はヘーゲルに始まるのであるが、ヘーゲルの哲学史は鉄塔書院と岩波書店とから併行して訳出されている。この二つの訳書の特色の比較は興味のあることだろうが、手元にないので出来兼ねる。その代りにヘーゲル哲学史の後継者の一人であるL・フォイエルバハの『近世科学史』が私の注目を惹く(上巻・松本義雄氏訳・政経書院版)。これはヨードルのフォイエルバハ全集に依ったもので、詳しくは、『ベーコンからスピノザまでの近世哲学史』であるが、主としてフォイエルバハがヘーゲルの完全な影響の下に立っている時期の著作と見做されている。だがそれにも拘らず一種の近世唯物論史の観がある所に現在この書物の大きい価値があるのである。
ところが訳には遺憾ながら感心しない個所が多い。単に読みにくい許りではなく、何か非常識な感じさえしないではない。エリザベス女王の後継者はジェームス一世とあるべき所をヤコブ一世とあったり、スターチェンバーとすべき所を、わざわざシュテルン・カンマーとルビを振ったり、フランシス・ベーコンで通っているのをフランツ[#「フランツ」に傍点]・ベーコン[#「ベーコン」に傍点]としたりするのも気にかかる。なぜこうドイツ語から一種の直訳を敢えてするのだろう。読者に不親切な訳文と不注意からくる誤植は眼にあまる。――だがこういっても、こういう本の訳の出ないよりは、とに角出た方がいいということは、素直に一般的に強調しておかねばならぬ点だ。多分訳者は文筆上の経験の深くない人と思うが、もう少し時間が経ってから訳を直して見たらばキッと良くなることと思う。
こういう場合、世間の自称篤学者達は何かというと訳者の「学的良心」といったようなことを口にしたがる。それも無論必要なことに違いはないが、併し翻訳者なり著者なりの仕事の全体から切り離して、又出版屋の資本上の制約からも抽象して、単に之やあれやの書物の出来栄えで人間の「学的良心」を云々することは、全く世間を見る眼を持たぬ非常識だ。『思想』(一九三四年)七月号で畠中尚志という人が斎藤※[#「日+向」、第3水準1−85−25]氏のスピノザ全集の訳を根拠として、斎藤氏について例の「学的良心」を疑っているのも亦、そういう場合の一種ではないかと疑われる。そこでは旧いオランダ語のテキストが問題になっているので、私には内容については全く何の意見も持てないが、仮に畠中氏の指摘した斎藤氏の誤訳や悪訳が全部畠中氏のいう通りにしても、斎藤氏が次号の『思想』で与えている返答の方に依然「真理」があると思う。『思想』の編集者諸氏はこの点どう考えるか。
古典の翻訳で一寸注目に値いする毛色の変ったものはJ・S・ミルの『社会科学の方法論』(伊藤安二氏訳・杉森孝次郎氏序・敬文堂版)だろう。これはミルの百科辞典的代表作『論理学体系』のモーラル・サイエンスに関する部分(第六巻全体)を訳出したもので、ブルジョア社会科学論の上では極めて大切な古典の一つであることは能く知られている。この本が現在持つべき意義に就いては、必ずしも杉森氏の序文に同意出来ないとしても、この頃読まれていい本の一つだと私は思う。訳も中々良い。
やはり部分的な訳出だが、ディルタイの『近世美学史』(徳永郁介氏訳・第一書房版)は甚だ手頃な便宜な好訳である。これは全集の第六巻の内「近世美学の三画期と今日の課題」(一八九二)の全訳で、訳文も嫌味のない達文だし、訳注の親切なのも有難い(なお同氏にはE・ウーティツの『美学史要』の訳もある)。
訳文が達者だといえば、河上徹太郎氏のシェストーフ『虚無よりの創造』(芝書店版)の訳は流石に名訳だ。同じくシェストーフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎氏・阿部六郎氏・訳・芝書店版)の訳も名文だ。正確かどうかは知るところでないが、とに角翻訳であることを忘れて巻を措かずに読ませるものがある。前者は然し木寺・安土・福島・三氏の訳になる『無からの創造』(三笠書房版)と対比させて見ると興味がある。三氏の訳の方は収められた論文の数も遙かに多く、訳文も場合によっては地味に過ぎて生硬であったりするので、あまり読み良くはない。――だが実をいうと、私にはこういったニュヒテルンな性質の訳の方が所謂「名訳」よりも好ましいのである。なぜなら地味な訳は、概念上の連想が却って豊富なために、読むに骨は折れるが思想上の示唆に富んでいるからだ。尤も三笠書房のはもう一段手を入れるとズッと達意なものとなる余地があるとは思うが。
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3 世界文学と翻訳
R・G・モールトンの『文学の近代的研究』(本多顕彰氏訳・岩波書店)を曾て私は読んで、第一に興味を惹かれたのは、文学と哲学との交渉に就いてであった。明治以来わが国では、文学と哲学とが殆んど全く絶縁されたような関係におかれている。それは文学が世界観や思想というものから縁遠くなって了っているからばかりではなく、哲学自身が世界観や思想として何等の積極性も自覚していないことから来るのである。だから偶々文学や哲学が何か世界観や思想を強いて持とうとすると、公式的文学観が生じたり、又その対立物として公式呼ばわり的[#「公式呼ばわり的」に傍点]文学論が発生したり、それから止め度もない体験の哲学や生の哲学が発生したりする。そして偶々文学と哲学とを結びつけたと見えるものには、往々極めてイージーな而もスケールの小さく浅はかな文学めいた哲学や哲学めいた文学が見出される。こうした手先の扮飾では、文学と哲学との根本的な結び付きなど決して浮び上って来るものではない。文学と哲学とが本格的に交渉するのは、クリティシズム[#「クリティシズム」に傍点](批評・評論)に於いてなのだ。考え方によっては極めて判り切ったこの関係を、克明に講義したものが、モールトンの今の本だ。
第二に興味を有った点は文学と古来及び近来のジャーナリズムとの関係である。遠くはホーマーや中世の吟遊詩人、降
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