EG・ドロイゼンの『史学綱領』(菊判二三〇頁)を翻訳した(刀江書院)。原書が史学方法論の今日に生きている古典として、歴史家にとっても哲学者、思想家、にとっても、必読の文献であることは云うまでもない。だが私が特に興味を有っているのは、之が現代の解釈学及び解釈学的哲学法にとっての最も有力な古典の一つで、現代型観念論の或る一つの秘密を解きあかしている代表的なエッセイだという点だ。現代の観念論は解釈哲学のシステムを以て最後の保塁としているからだ。尤もこういう観点を離れても、それ自身歴史感覚を深めるための貴重な演習教程になるものなのだが。
 この本は樺氏(『歴史哲学概論』其の他の著者である)によって、全く打ってつけの翻訳者を見出した。同氏以上にピッタリとした訳者は今の処得られないものと思う。そういう意味で、この訳書に向かって私は大変爽快な気持ちを覚える。同氏の力の這入った解説文も丁寧で要を得ており、読者の聴きたいことを手回しよく伝えている。最近の編者ロートアッカー版の序文の比ではないようだ。
[#改段]


 10[#「10」は縦中横] 『日本科学年報』の自家広告


 岡邦雄氏と私とが編集者ということになっている『日本科学年報』一九三七年版(改造社)が今回出版された(三七年六月)。この際多少自家広告をしておきたく思う。一月程前に出る筈だったのを、編集者側と出版者側との夫々の都合でおくれたので、文芸年鑑其の他よりも一月後になったのは残念だったが、来年度からは用意を手回しよくして出版の時期を早めたいと考える。
 初め『年鑑』という名にする心算であったが、経費と時間との関係で便覧風の調査が出来にくかったので、もっとアカデミックな名の『年報』としたわけである。実際に編集に当ったのは唯物論研究会の多数の会員幹事達其の他であって、特に石原辰郎氏の努力を多としなければならぬ。ただ唯物論研究会の第一義的な仕事と銘打っては多少憚りありというので、岡氏と私との編集名義になったのである。すると岡氏や私などは少し割が合わないことになるわけだが、併し又、岡氏と私とだけで編集したらばこの程度のものには決してなれなかったのだから、吾々は(少なくとも私はだ)寧ろ得をしているものだということを告白する。
 ここで科学というのは、独り自然科学だけではなく、社会科学(乃至歴史科学)と哲学とを含み、且つ芸術・文化・理論をも含む。総合的で且つ観点の原則が貫徹している点が、本年報の特色であり、又目新しい処であると考える。こういう特色ある年報の類は、之までまず無かったようだ。併しそれだけに又、杜撰を免れないだろう。特に、出来上るまでどういう調子の本になるのかが、どの執筆者にもピンと来ていなかったことが、弱点の源の一つである。少なくとも私自身の場合がそうだった。
 だがひいき眼で見ると、読み物の部分はまあ何とか退屈しないで読める程度だし、見る部分である「アルバイト総覧」は少なくともその分量から云って、努力だけは充分に買って貰えるかも知れない。校正だけでも並大抵ではないのである。寛厳宜しきを得た批判を受けたいと思う。
[#改段]


 11[#「11」は縦中横] 心理と環境


 E. S. Russell の The Behaviour of Animals, London の訳『動物の行動・環境』は色々の点で面白い本だ(訳者は永野為武と石田周三との両氏)。簡単に云って了えば動物心理の本であるが、併し大切なのは、動物の心理を、と云うのは結局動物の行動をということに他ならないが、その環境から説明しようとする点にある。否、説明するというよりも、その環境に於て観察するという研究の方法に面白味があるのである。
 単に実験室でやった実験は動物の正常な生態を蹂躙して了う。それでは動物の本当の習性は判らぬ。何でもトロピズムとかタキシスとか云って片づけられて了うことになる。だが所謂トロピズムとかタキシスの多くは、動物が強制的に置かれた異状生態からノルマルな生態に復帰しようという生活全体の必要からの趨向なのであって、その自然な生態の観察からでなくては、この点がハッキリしないと云うのである。
 この考え方はケーラーのチンパンジーに就いての有名な研究と全く同じやり方だ。所謂形態心理学は全くケーラーのこうしたやり方によって実験的な基礎を置かれたもので、ラッセルのも形態心理学の資料として大きな価値があるのである。チンパンジーが色なら色を記憶するのは決して単独な色のあるものとしてではなくて、之と連関している認識対象の或る全体との対比に於てしか記憶していないのだ、という結論を導き出したケーラーの形態心理学は、同時に動物をその形態上の或る全体に於て見なければならぬという方法の結論でもあるのだ。
 本能とか知能というものの観察も当然こういうやり方で行なわれなくてはならぬ。両者の対比と連関とをこの本では具体的に丁寧に述べている。読者はここで又マクドゥーガルの心理学を思い出さねばならぬだろう。――なお形態心理学の研究が盛んなのは九州帝大の心理学教室で、古典的な文献の集録も出版されているし、研究発表や著述も多い。
[#改段]


 12[#「12」は縦中横] 「外国人」への注意書


 板垣鷹穂氏の評論集『現代日本の芸術』は、五年前に出た『観想の玩具』以来の最初の出版である。そう云っても実はこの本は、同氏の十八冊目か十九冊目の本だ。それ程氏は多作な評論家である。だが今度の評論集は恐らく従来のもの以上に面白いものではないかと思う。大変実際的な落ち付いた観察を以て終始していることによって、或る一つの纏まったアトモスフェアをハッキリと醸し出している。練達の士のものしたものであることを思わせる。
 寧ろアトモスフェアが出来上り過ぎてさえいないかということが気にかかる程だ。氏の文章にはもはや青年らしい焦慮も野心もない。文化世間での苦労人らしい坦々たる論調と共に長者らしい鷹揚ささえも備わっているのである。元来氏はアカデミックな気むずかしやの一人である。直子女史のアカデミー振りと琴瑟相和す部分もないではないようだ。併し結局氏は批評的精神ではなくて肯定的精神である。世俗的な権威についての最もよい理解者の一人であることにもそれは現われている。落ちつき払って見えるのもそこに原因しているらしい。
 処でこの評論集は異彩陸離たるものがある。都市、流行、建築、文芸、映画、美術、写真、舞台、放送、教育、という十項目の下に、夫々二三篇から二十篇の文章が収められているが、現代日本人の日常生活に於ける芸術形態を、これ程親切に忠実に、紹介批評し、且つ記録したものは、他に殆んどないと云ってもよい。氏には今日では特別のイデオロギーがあるとは云えない。だから氏は単なる記述者であるとも云うことが出来るかも知れない。併し、この記録者が偽りなく記録した結論は、恐らくこういうことになるらしい。曰く、現代日本人の芸術は、歌舞伎でもなければお能でもなく茶の湯でも生花でもない。所謂近代芸術こそがみずからのものと感じている芸術なのだと。色々な意味に於ける「外国人」――日本主義的エキゾティシストをも含む――にそういうことを教えるに有効な本だ。
[#改段]


 13[#「13」は縦中横] 古本価値


 散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科学の将来』という小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買った。『ヤソ伝』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブトルーの『自然法則の偶然性』を訳出していたと思う。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂という出版屋から出ている。叢書形式の内の一冊かも知れない。そうすれば半分だけを訳して出すということも、分量の上から云って止むを得ないことだったかも知れない。
 併しそのために、何と云っても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は、何も隅から隅まで目を通さなければならぬ程大事な内容で充満しているわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合わせに過ぎぬと思われる部分も多いが、それにしても訳者も云っている通り、ルナンの其の後の仕事の方針を宣明したものとして、大いに価値のある文献なのだが、それが半分では、全く雑本としての価値しかない。こう古くなって誰も手にとっても見ないようになると、そういう点が特に目に立つ。惜しいことだ。
 同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『変態心理学』というのがある。之はリボーの有名な『記憶の疾患』、『意志の疾患』、『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。そういう加工だけですでに、古本価値[#「古本価値」に傍点]のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだろうこの訳書を、私は割合大事に、蔵っておいている。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
 序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与えている。之は私にとっては興味と同情とに値いする点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払っていい。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬようだ。
[#改段]


 14[#「14」は縦中横] 文化が実在し始めた


 ミショオの『フランス現代文学の思想的対立』(春山行夫訳――原文は英語)は私にとっては最初から興味のあった本で、読んで見て勿論失望はしなかった。今日一国の文学を論じる以上、之を思想問題として論じなくてはならないのは、当り前すぎるほど当り前なのに、多くは、ただの「文学」(?)の紹介と云った水準のものが、普通の通り相場である。そういうものに対比して、之見よがしに、之を持ち出して来るのも、一興である。
 内容は少しゴタゴタしすぎている。それというのも、出来るだけ沢山の人について書こうとしたためだろう。ただの報告に近いものさえある。そういうニュース的な興味をもう少し節約したならば、文明評論としても生きて来るし、文化の真の報道としてさえも生きて来るだろう。
 巻末の相当分量の付録「人民戦線以後の文学」という春山氏の筆になる文学と政治とのクロニクルは、この書物の意義をよく見抜いた上での補足というに値いしよう。
 この頃私は、文化問題に関する諸国の評論兼報告と云ったものの、纏った本に関心を持っている。今のミショオのもその代表者であるが、国際作家会議報告の『文化の擁護』、国際連盟のインテリジェンス国際協会の記録『現代人の建設』、ミールスキーの『イギリスのインテリゲンチャ』(之はまだ訳が出ていないが)、ロマン・ローランの『闘争の十五年』(ジードの『ソヴェート旅行記』も入れてよい)、等々の纏まったものを買って読みたいという気持である。
 右の本はまだ全部読んでいるわけではないが、それにつけても思い当るのは、「文化」という問題が本当に吾々民衆、と云って悪ければ吾々インテリ大衆、の生活問題そのものにまで高まって来たということだ。
 文化は民衆の自主的なものでない限り、インチキであるという実感がいつとなく、わが国の思想をも捉え始めている。それは今云った出版の情況からさえも知られる。文化は実在し始めた。文化をゴマかしたりマルめたりするデマゴーグの征伐を、そろそろ始めていい時期である。
[#改段]


 15[#「15」は縦中横] 科学主義工業に対して


 理研コンツェルンの言論株式会社ともいうべき「科学主義工業社」から、『科学主義工業』という月刊雑誌がこの頃出ている。社長はよく知らないが、恐らく大河内正敏博士だろう。科学主義工業というのは博士が実施している最近の産業哲学であり、同時に工業経営の国家的大方針であるようだ。科学主義工業とは、資本主義工業に対立するのである。
 この論旨を解明するものとして最も興味のあるのが、同博士の『農村の工業と副業』という小さな本だ。本の体裁は一見時局的際物の感があるが、内容はとにかく価値のあるものである。
 科
前へ 次へ
全28ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング