スだ恐れるのは、之によって逆効果を来たしはしないかという点だけだ。この本のおかげで、ブック・レヴューというもの一般の信用を傷けることになりはしないかが、心配だ。
 模範を示すことは出来ないが、「ブック・レヴュー」というもののサンプルの若干を示すことは出来たかも知れない。「読書法日記」とか「論議」とか「ブック・レヴュー」とか「書評」とかいう類別が、夫々サンプルであり、そうしたサンプルを集めたこの本は、云わばカタローグみたいなものでもあろう。ただ大抵のサンプルは実物よりも良くて他処行きに出来ているものであるが、このサンプルだけは、云わば実物よりも劣っているように思う。つまりブック・レヴューの外交であるこの筆者が、相当の犠牲者である所以である。
「読書法日記」は『日本学芸新聞』にその名で連載したものであり、「ブック・レヴュー」は『唯物論研究』の同欄に載せたものである。「書評」は主に新聞や雑誌に所謂書評として発表されたもの。いずれも特になるべく様式の原型をそのまま保存することにした。サンプルとするためである。「論議」はブック・レヴューに準じたエセイであり、「余論」はブック・レヴューそのものに関する若干の考察からなっている。
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 ※[#ローマ数字1、1−13−21] 「読書法日記」




 1 読書の自由


 敢えて新刊紹介や新刊批評という意味ではない。また良書推薦という意味でもない。私はそんなに新刊書を片っぱしから読むことは出来ないし、また何が良書であるかというようなことを少しばかりの読んだ本の間で決定することも出来ない相談のことのように思う。もう少し無責任な読書感想の類を時々書いて行きたいと考える。勿論私の身勝手な選択によることになるだろう。或いは妙な本を読む人間だと思う人もあるかも知れない。併し人間というものは、はたで推測するような注文通りの本を読んでいるものではない。意外のものから意外の示唆を受けるものだ。この示唆は私なら私という人間にしか通用しない場合も多い、だがそうかと云って、そんなに非合理なことでもないのである。
 とに角万人必読の良書をえりすぐって評論するというような、第一公式の礼服着用に及んだものではないのだから、御容赦を願いたい。吾々は読書の自由(?)というものを、こういう意味でも亦持とうではないか。旧本、駄本、変本、安本、其の他其の他も恐れないことにしよう。尤も「趣味」本の類ばかりを新刊したがるような一種の新聞的新刊紹介のやり方は、真似したくないものだが。
 さて手始めに私の友人である石川湧君を御紹介しよう。勿論彼はフランス語による評論の翻訳者として相当有名な人物だ。同時に彼は大変な不平家である。自分が訳す本は世間でも文壇論壇でもあまり注目しない、何という莫迦ばかりの世の中だろうというのだ。最近彼の選訳になるレミ・ド・グルモンの『哲学的散歩』(春秋社)が出た。全訳ではなくて彼の手に負えるもので、重大性を有ったもので面白いものだけを選んだのであると云っている。併しグルモンの思想、考え方、哲学、文学意識、其の他其の他、要するに吾々にとって必要なグルモンは、之で立派に紹介されているわけである。グルモンのこの本の訳は、すでにどこからか出版されたこともあるとかいう噂を聞いたが、殆んど知られていないので、この石川訳が最初のものと考えていいだろう。
 訳者も説明しているようにグルモンは一方に於て詩人だ。クラシシズム派の詩人である。けれども吾々にとってもっと直接縁故のあるのは、寧ろ評論家思想家としてのグルモンだろう。そのグルモンは、自分は主観的観念論だというヨーロッパのブルジョア文化人と共通な仁儀を述べているが、併し実際には、唯物論の精神を相当執拗に追求していて、唯物論の根本テーゼの一つ一つについて、可なり心を砕いて考えている。「観念論の根源」、「動物の心理」、「快楽讃」などがそのいい例であり、又ベーコン、メストル、エルヴェシウス、カント、ゲーテ、ダーウィン、ラマルク、ファーブル、ダ・ヴィンチ、ラスキン、サント・ブーヴ、ニーチェ、スタンダール、モネ、などに対する批評もそうだ。彼の生物学者風の知恵が、グルモンの唯物論(?)を要求している。彼はモラリストの中に立って、一つの新鮮な健康な存在である。何らかの唯物論者がデモクリトス以来、笑える哲学者であることを、彼は読者に思い起こさせるだろう。
[#改段]


 2 譬喩の権限


 六七年前になるかと思うが、現在京都帝大の教授である九鬼周造氏が長年のヨーロッパ滞在の後、帰朝して京都の哲学の先生に任じられたので、訪問したことがある。その時聞かされたのに、フランスの或るリセの先生であるアランという人が、青年の大した人気者だということだった。一遍読んで見たいと思っていたが、外国語の本では買うのが億劫で、手に這入ってからも読むのが時間がかかるからハキハキしなかった。
 その内、この二三年程というもの、フランス語学者や文芸評論家達の書くものに、アランの名がよく出て来るようになった。愈々人気は極東にまで及んで来たなと思った。谷川徹三氏もどこかで「いまの自分はアランで夢中だ」と書いたようだった。で私はアランにめぐり合う(?)のをひそかに期待していたのである。
 処が幸いにして、去年の暮に、小林秀雄氏の訳でアランの『精神と情熱とに関する八十一章』というのが出た。とりあえず読んで見たのである。精神とはエスプリで、情熱とはパッションのことであるが、情熱を情念[#「情念」に傍点]と訳した方が或いは語弊が少なかったのではないかとも思う。日本の文士の間では情熱というものは、云わば尊敬すべきものになっているようだが、アランがパッションに就いて語る場合は、必ずしもそうではないからで、デカルトの頃からフランス其の他の哲学者が人性論[#「人性論」に傍点](アントロポロジー)に於て取り扱って来たものが、このパッションに他ならないのである。
 さてこの本は実は一種の哲学入門である。感覚認識・秩序づけられた経験・論証的認識・行為・情念・道徳・儀式の七部に分れて、併せて八十一章からなる。その風格は次の一二の例から知ることが出来よう。一一〇頁、「神が飛翔の為に翼を作った、と言って安心している人の精神にはただ言葉が在るだけだが、もしその人が、どういう工合に翼が飛翔の為に有効かという事を承知しているなら、所謂諸原因を極めて物を理解している事になる。」之は目的論と因果関係とを有効性というもので結びつけた説明で、そんなに平凡な説明でないことは、知る人ぞ知るであろう。
 又一三四頁、「暇の時に人々が出会うと、めいめいの考えを交換するものだが、この交換は言ってみれば、既知の諸公式に依って行なわれるのであって、精神は高々言葉を楽しんでいるだけだ。……様々な記号を確めてみる事に充分幸福を感ずるという人々のこの会話なるものに、古い時代の名残が見える。」会話=暇つぶし=娯楽というものについて反省させるに足る示唆だ。
 併し困るのは「公衆」についてという項の類である。「文字通り服従するとは不正な力を支配し処罰する一つの方法である。」「暴君は許すことが好きなものだ、寛大は王権の最後の手段である、だが厳格な服従によって僕はその高貴なマントを剥いでやる。異議を唱えるという事は大きな阿諛だ、暴君に僕の家を開放してやる事だ。」
 このそれこそエスプリに富んだすぐれた言葉も、もはや前の二つの場合の例のような、健全な科学性[#「科学性」に傍点]を有っていない。ここに「深い管見」とでも云うべき、局処的真理のもつ虚偽、というものに、私は思いあたるのである。つまり多くの所謂「哲学」の書は譬喩の書ではないだろうか。それは人生の或る絵画ではあるが、設計図ではないようだ。
 訳は可なり立派な日本語になっている。いい訳である(最後にどうでもいいことだが一つ気になった個所がある。ハムリンという人名が出て来るが、あれはアリストテレス学者であるアムランのことではないだろうか)。
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 3 耕作農民の小説


 農民作家創作集『平野の記録』という本を寄贈されたので、半分あまり読んで見た。編者鍵山伝史氏の「あとがき」によると、これに収められている六篇の作者は、いずれも農村に在住する耕作農民であるという。私はまずこの点に興味を惹かれた。都会に住んでいる職業的又半職業的な作家でない人達が書いたのだということ、そして恐らくそうした作者の数多の作品の中から選び出された代表作が並べられたものだということ、之は今日注目に値いする。
 編者はいっている、「私は雑誌『家の光』の記者だったが、その記者生活において、農村から送られて来る諸種の投稿に触れる機会を非常に多く持った。それらの大部分は、稚拙であり粗雑であった。誤字や、かな遣いの誤りなどを数えるとほとんどきりがなかった。「仕事」を「任事」と書いてあったり「屡々」という副詞を「暫々」と書いたり「意外」と書くべきを「以外」と書いてあったりするのはその一例だが、このように、およそ「文字」の使用に対してあまりにも無雑作である上に「文章」に対してもまた、放埒なまでに無思慮な原稿を見て、時には腹が立ち、時にはふきだしたくなることがあった。ところが、私はそうした原稿になれるにしたがって、職業作家の作品とはまた、おのずから別種のおもしろさを見出すようになったのである」云々。
 私の読んだのは、小説だけで、戯曲二篇はまだ読んでいない。なぜか、この場合に限らず、私は戯曲を読むことが億劫なのである。多分、戯曲は読むことで感受が完了するものではないという意識が邪魔をするのだろう。で小説だけ読んだのだが、その出来栄えを見て普通の職業的半職業的な作家のものと、大して違いのあるものとは思われないのだ。非常に優れているとも思われないが、勿論劣っているとも考えられない。職業作家とは別種[#「別種」に傍点]な面白さというよりも、それと共通[#「共通」に傍点]な面白さの方が感銘を与えるように思った。一体私は今日の小説で、農民小説は大抵面白いように思うのである。野地氏「平野の記録」は小作地管理人の地主への忠勤振りを描き、野原氏の「嵐の村」はバクチ検挙にからむ村の有士の詐欺を取り扱っている。どれも面白く読める中篇である。渡辺氏「山晴れ」は農村青年と売られて行く農村の娘との悲劇を牧歌的に抒した小篇、栗林氏「新学期」は農村学童が先生から貰った学用品を、泥棒したのだと思い込んだ両親にどやされるという短篇、どれも農村の現実的な矛盾を剔出しようとする判然とした思想と意志とを表わしている。余計なものはどうでもよい、面白い要点はここにある。私は重ねて編者ではないが「文学が必ずしも職業作家のみに任せて置かなければならぬ理由はないという確信を抱くに至ったのである。」
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 4 「文化的自由主義者」としてのA・ジード


 ジードの『ソヴェート旅行記』の全訳が出たので、早速読んだ。三分の一程は中央公論で読んだのだったが、新聞などで紹介を見た時教えられたジードの怪しからぬ(?)点は、この三分の一の内にはあまり出ていなかった。寧ろソヴェートへの好意の方が目立っていた位いだ。この感じは、全訳を読み了って多少は修正されはしたが、併し私の根本的な感じには変りがないのである。
 ジードはジードなりにソヴェートを可なり好意的に見ようとしている。元来ジードは決して唯物論者ではなく、そういう立場に立ったコンミュニストでもなかった筈だ。之は誰しも知っていた筈である。彼は個人主義と理想主義とに立脚した「コンミュニスト」に他ならなかったのだ。だから彼がソヴェートに就いて懐いた予備観念が又、極めて理想主義的なものであったことは当然なので、その理想主義がソヴェートの現実に行き当って、一つの動揺に陥った。信頼と共に甚だしい不満を覚えた。ただそれだけのことなのである。
 併しそこから偶々彼の地金である色々の弱点が露出せざるを得なかったのである。彼のようなタイプの進歩的な自由主義者は
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