れて計算しなければならぬ。翻訳の云わば内在的な(観念的な)可否だけでその仕事の現実的価値を決定して了ってはならぬ。学的良心というようなものも、出版業者の資本や訳者の経済的社会的生活条件と大いに関係があるのだから、軽々に言及すべきでないと。それに私はひそかに考えるのだが、仕事の分量の大さというようなことも或る程度まで質の良さの代位をするものであって、或る程度の質を備えたものを多量に産出出来るということは、良質なものを極めて稀にしか発表しないアカデミシャニズムよりも、却って客観的価値のあることだと思うのだ。
熊沢氏の場合についても大体同じことが云えるのではないかと思う。私のようにロシア語を知らぬ読者は、何と云っても熊沢氏の仕事に随分恩を負うていると云わざるを得ない。仮に私が氏の誤訳悪訳を指摘するとすれば、それはとりも直さず氏の訳そのものの社会的余沢(?)であると云う他あるまい。つまり熊沢氏は何も訳さずにどこかの語学の先生でもしていれば、誤訳もしないで済んだわけで、その責任も良心も無事であった筈だ。だから結局、その質の良否は第二段として、翻訳をやらぬよりもやった方が一般に価値があるのだとい
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