端なものは広告文なのである(一二のものを除く大方の新聞の読書欄ブック・レヴューも、出版屋が原稿料を払うのであるから、広告の意味を有っている)。新聞の広告についても、広告主の出版屋や新聞社の営業の方では、記事とは別な「広告」だと考えているかも知れないが、読者の方から云えば之は最も重大な「記事」(時報的なニュース)の一つなのである。東京新聞の第一面出版広告欄がもつ記事としての魅力は、大阪新聞のただ中に置かれたことのあるインテリならば誰でも気づく処だろう。この広告文が意味のない最大級の誇張と、不正確なペテン解説とに終っているという習慣は、一つには出版者の教養の問題にあるが、不都合なことだ。私は著書の広告文は著者みずから自己解説するのが本当だと信ずる。著者たるものはゼルプスト・ダルステルングする権利と義務があると信ずる。序でだが、広告文を自分で書くことによって、例えば無意味で陰険な謙遜という東洋的な著者の悪習も、自然矯正されるだろう。之は自他を公正卒直に評価する風習に貢献するだろう。序文を書く時の著者というものは、多少センチメンタルになっているもので、酒癖の悪い少数の者は徒らに威丈け高になるが
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