ことを云っているのではない。そういうものがなくても修正は『紀行』よりもジードの生産機構や社会機構に対する注目を示している。処がその注目が、依然として文化主義者らしく、又文学者らしいのだ。
『修正』の方は後にして『紀行』はその体裁から云っても極めてジードらしい。つまり文化主義が純粋な形で、従って又それ相当の尊敬を要求しているような形で、首尾一貫して現われている。誠実な文化人、特に純粋で鋭敏な文化主義者ならば、ああ感じるのが当然だという気がする。之がジードに対する同情を惹き起こす。之が正しい興味を呼びおこす。
 好意のある興味と同情とは、勿論ジードの見解の狭さを指摘することとは矛盾しない。文化主義者ならああ感じるのが尤もだという理解は、だから文化主義者が正しいということと一つではない。吾々はジードの感じ方に同情を示しながらも、決してそのままジードに追随することは出来ない。吾々は世界の出来ごとを見るのに、ああした文化主義の角度からするのを、世界の文化人に最も普及した原則上の誤りだと考えるものであり、物ごとをもっと唯物論的に見ねばならぬと考えるからだ。マテリアリスティックなセンスを全く欠いてい
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