れるような氏の訳に出会った経験もある。最近の一例では『文芸学の方法』(清和書店版)の内で、イギリス文明史を書いた「ボークル」云々という言葉が数ヵ所出て来たが、之はバックルでなくてはならぬだろうと思った。処が旧ナウカ社版、白揚社新版のミーチン・イシチェンコの『唯物論辞典』にも矢張りバックルがボークルとなっているから、この誤りは殆んど伝統的なものであるらしく、決して熊沢氏一人の誤りではないのでないかとも考えた。こういうような翻訳検察官になることは誰にでも割合に容易であり、偶々熊沢訳は検察官の目につき易いのが事実であるというにすぎぬのだが、併しそれがすぐ様責任と良心との問題だと云って了っていいだろうか。
私はかつて斎藤※[#「日+向」、第3水準1−85−25]氏のスピノザ全集訳に対する或る精鋭な(但し当時殆んど無名な)古典学者の非難(『思想』にのった)に就いて、『東朝』紙上でこういう意味のことを書いたことがある(次項を見よ)。著作翻訳其の他を品隲するに際しては、その人の之までの業績全体が持っている社会的[#「社会的」に傍点]功績の程から批評されねばならぬ。それから各種の社会的条件もそこへ入れて計算しなければならぬ。翻訳の云わば内在的な(観念的な)可否だけでその仕事の現実的価値を決定して了ってはならぬ。学的良心というようなものも、出版業者の資本や訳者の経済的社会的生活条件と大いに関係があるのだから、軽々に言及すべきでないと。それに私はひそかに考えるのだが、仕事の分量の大さというようなことも或る程度まで質の良さの代位をするものであって、或る程度の質を備えたものを多量に産出出来るということは、良質なものを極めて稀にしか発表しないアカデミシャニズムよりも、却って客観的価値のあることだと思うのだ。
熊沢氏の場合についても大体同じことが云えるのではないかと思う。私のようにロシア語を知らぬ読者は、何と云っても熊沢氏の仕事に随分恩を負うていると云わざるを得ない。仮に私が氏の誤訳悪訳を指摘するとすれば、それはとりも直さず氏の訳そのものの社会的余沢(?)であると云う他あるまい。つまり熊沢氏は何も訳さずにどこかの語学の先生でもしていれば、誤訳もしないで済んだわけで、その責任も良心も無事であった筈だ。だから結局、その質の良否は第二段として、翻訳をやらぬよりもやった方が一般に価値があるのだという事実を私は強調したいのである。凡てが欠点で悪い作用一方だというような訳はあり得ないのだから。
それから今日では、その方が、翻訳の質を段々よくして行くという実際上の効果が一層あるように思われる。特に熊沢氏のようにその仕事の意図が吾々と本質的に一致している時には、こういうやり方の方が却って峻厳な批評[#「峻厳な批評」に傍点]の実質を備えるものだ、というのが批評というものの一つの秘密であろう。――批評は峻厳でなければならぬ。不純な手心があってならぬ。だが厚意ある峻厳こそは最も峻厳であり、最大のリアルな苦言[#「リアルな苦言」に傍点]なのだ。武田氏自身がゴーリキーの批評家としての態度について云っている、「この愛情は若い作家達に対する彼の指導[#「指導」に傍点]と、世間一般の『批評家』達が作家・作品・に対する態度とを比較するならばあまりにも明瞭である」。武田・熊沢・両氏の批評者と被批評者としての関係についても(ムタティス・ムタンディに)、同じことが云える筈だ。
[#改段]
8 篤学者と世間
斎藤※[#「「日+向」、第3水準1−85−25]氏と畠中尚志氏なる人とが、『思想』誌上でスピノザ邦訳に関して喧嘩をしている。初めて攻撃の矢を放ったのは畠中氏の方であって、相当痛烈なものだったが、斎藤氏は之に対して、多少問題の核心を避けながら、一種皮肉な口吻で高踏的な答をした。翻訳に多少の誤訳のあるのは已むを得ないことだが、それをそんなに大騒ぎするのはどういう目的なのか、という口吻である。併しテキストに関する論争としては、素人の眼から見て、勝味は畠中氏の方に多いように見えるのであって、畠中氏は今月号(一九三四年九月)の『思想』では大分落ちついて、斎藤氏に止めを刺そうとしているらしい。
だが吾々素人の読者にとっては、この種の問題は決してただのテキスト批判の問題には止まらないのである。現に畠中氏も斎藤氏もそれぞれ「学的良心」とか「学者の信用と地位」とかいうものを持ち出して問題にしているが、それが単なるテキスト・クリティックの問題に止まらない証拠である。そこでテキスト・クリティックの観点以上の観点に立つと、どっちの方に理があるか、簡単には決まらなくなる。
一体『思想』という雑誌は之まで時々この種の学界警備に任じて来た。和辻哲郎氏は東北帝大教授藤岡氏のコーエン翻訳をヤッツケて訳者
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