物の復興であり、もう一つは、広い意味に於ける古典的な文学的著作(必ずしも文芸物には限らぬ)や自然科学的著作などの相当計画的な出版である。この後の方の場合は、おのずから、一見政治的傾向とは関係の薄い、云わばイデオロギー的に見れば中性を帯びたように見えるものの出版で、この出版現象が社会現象として実際に何を意味するかは別として、とに角読書としては一種の落ち付きに基くものと見ねばなるまい。
 所謂左翼出版を行なって来た出版業者は二三年以前までに仕事を抛り出して了ったものが沢山あった。希望閣・共生閣・鉄塔書院・其の他がそうだった。今年の一九三六年の初めまでに残った左翼的出版業者は叢文閣と白揚社とナウカ社位いなものだろう。処が最近では多少そうした種類の出版物に関心を持ち出した書店がなくはない。例えば三笠書房などがその例だろう。そうしてこのいずれの出版業者にしても、その出版書籍の口数は決して他の種類の出版業者に較べて少ないとは云われないようだ。少なくとも今年になってこの種の出版は相当調子づいて来たように思われる。
 社会科学方面では、小林良正、森喜一、相川春喜、永田広志、其の他の諸氏の研究が白揚社から単行本になって出た。野呂栄太郎氏の『日本資本主義発達史』が岩波から再版されたことも注目に値いする。叢文閣は、ヴァルガの年報を続けて翻訳出版していることは別として、ヴィットフォーゲルの『市民社会史』其の他やダットの『ファシズム論』や、ポポフの日本に関する諸研究など読み応えのある翻訳物を続々出版している。
 哲学・自然科学・方面では、白揚社から出た秋沢・永田・両氏の宗教批判講話、巌木勝氏の日本宗教史などがこの方面の開拓者の役目を果したと見てもいい。永田広志氏や私なども、哲学に関したものをここから出版した。岡邦雄氏は自然科学史を出した。アインシュタインの『わが世界観』も出た。考古学や言語学に関する訳も出た。三枝博音氏と戸弘柯三氏とは日本思想史に関する書物を他の書店から出版している。ナウカ社はソヴェートに於ける自然科学的著述の翻訳出版に力を注ぐ。数学や物理学・化学・などに関する中等教程とか、『ソヴェート科学の達成』とかマキシモフの自然科学とレーニンとに関する論集とかも出た。三笠書房は最近『ソヴェート文学全集』を出しているが、之と前後して、『唯物論全書』を続刊している。之は唯物論の視角から見た学術的に根本的な諸テーマを取り上げて研究解説したもので、日本では最初の企てだと云えるだろう。すでに十三巻以上出ている(一九三六年まで)。
 著書の序でに、左翼的な又は建前に於て進歩的な評論乃至学術雑誌を見るとすれば、『経済評論』(叢文閣)、『歴史科学』(白揚社)、『唯物論研究』(唯物論研究会)、『社会評論』(ナウカ社)、其の他の読者の定着を注目しなければならぬ。
 以上は或る意味に於て「左翼的」(?)な、と云うのは、本当の意味に於て進歩性を建前とする、出版界のことだったが、その実質的な内容から云って、到底、所謂右翼出版物の遠く及ぶ処でないことは今更問題ではない。尤も企業的に見て、どっちが儲かっているかは、私の知る限りではないが。
 併し、イデオロギー上の中性を有つ出版物が、著しく盛大になったことは、今年の何よりの特色に数えられるだろう。自然科学関係のもの(例えば『岩波全書』)が多数出版されて重厚な読者層を見出しつつあることは、之も一つの思想上の現象であり、中性に於てサスペンドしようとすると共に、しばらく退いて落ち付いた勉強をしようという、社会意識の現われだろう。でこの種のものは多く教科書の形をとる。そしてこの中性式教科書好みは無論決して自然科学だけではなくて、社会科学に就いてもその通り云われることだ(尤も改造社の『現代金融経済全集』や『統計学全集』などは、評論社や改造社が往年競争して出版した『経済学全集』の類とは較べものにならぬが)。この教科書好みの大規模なものは辞典や古典の全集となって現われる。辞典の方は尤も、勉強を省略しようとする読者にとって魅力を有つが、古典の全集は恐らく勉強するために買われるわけだろう。文芸辞典やゲーテ・ニーチェ・ドストエフスキー(尤も再版)其の他の全集が、出つつある。
 だがイデオロギーの中性を求めるというこの読書界の大きな部分の現象、即ち又それに相応する出版界の現象は、一面に於て地道な手続きを取った探求の精神の現われであると共に、直ちに又他面に於ては、却ってつきつめる底《てい》の探求を放擲するものであるということを、深く注目しなければならぬ。之は左翼運動家の転向現象とも一定の関係があり、左翼思想家の退却とも連りがあり、それから特に文学の世界に於ては、文学主義化の傾向とも連絡があるのである。だから例えば、同じく中性的な哲学でも、普通のコース
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