全く知る処はない。元東大工学部教授・工学博士大河内正敏氏についても同様である。更に理化学研究所所長、及び理研コンツェルンの総帥としての氏についてさえも、個人的にはあまり知っていない。事実私が知っていないというだけではなく、思想家でも文学者でもなく、又所謂政治家でもない氏のようなタイプの人について、街の人物批評風のものはとに角として、所謂人物論と呼ばれる個性的な人身問題を提起するということは、あまり誂え向きなことではないだろう。
今日氏が重きをなすものは、世間の人の殆んど総てが知っているように、理研コンツェルンの指導者としてである。従ってこの方向に於ける氏の公人としての社会的本質は、理研コンツェルンの現下の社会に於ける著しい活躍と、その研究の背景をなす理化学研究所の業績とを検討することによって、大体明らかになるのであるが、その点ならば、大して困難な分析はないとも云うことが出来る。併し私は之も亦今ここで試みようとするものではない。なぜというに、理研や理研コンツェルンの社会的活動を本当に検討批判しようとすれば、今日の日本に於ける工業上の実際問題に立ち入らざるを得ないわけだが、そうなると、問題は勢い時事的批評に這入らざるを得ない。そこには本機関誌では取り扱い得ない範囲に横たわる問題が無限に匿されているばかりでなく、恐らく私の現在の力では決定し切れない要素も見出されはしないか、と考えられるからだ。
私は単に、氏が最近到達したらしく見える工業思想の理論について、理論的検討を試みるに止めなければならぬ。それとても理研コンツェルンが社会に於て実際に演じつつある事業の分析と批判との関係から見ない限り、実際的ではないのであるが、ここでも、前に述べたと同じ理由によって、そういう点は切り捨てなければならない。
処で大河内氏は、最近『農村の工業と副業』という小著を出版した。この小著については、私はすでに本誌〔『唯研』〕の「ブック・レヴュー」で思想内容の要点を簡単に批評したのである。つまり科学主義工業[#「科学主義工業」に傍点]なる観念の有っている困難と矛盾とを指摘したのである。科学主義工業という観念こそ大河内氏が最近到達した工業思想上の結論であり、云わば氏の独創的な――併し現に実地に理研コンツェルンを支配の下に実現しつつある処の――産業哲学なのである。尤も氏の独創的な産業哲学と云っても、氏に云わせると、ドイツや北ヨーロッパの科学者やエンジニヤーが烽火を挙げた新しい工業の精神であるというのであり、氏の所謂「第二産業革命」の声に応じるものであるというのだから、初めから氏にだけ特有な観念であると断じ去ることは出来ない。或いは寧ろ、こういう言葉によって、常識的に想像されるだろう内容は、要するに今日、誰しも一応は考えて見ている常識であり、工業が資本主義に横取りされているから之を科学の手に取り戻すということは、至極尤もな常識であると云った方がいいかも知れない。必ずしもドイツや北ヨーロッパの科学者やエンジニヤーの頭を必要としないのであり、又大河内氏の頭も必要としないだろう。それが、単なる観念である限りはだ。
だが之が工業思想上の多少具体的な問題になると、勿論之を単にあり振れた常識的観念であるとして見すごすことは出来ない。実際にそういう観念を具体的に懐き得るものは、必ずしも世界の心ある科学者や技術家の凡てではあり得ない。ここに科学主義工業提唱者のオリジナリティーかイニシャティヴがあるのであるが、併し更に、この観念を日本の特有な条件について具体化し、更に又、之を実地に実現し、且つ又それが企画上の成功を齎し得ているという点になると、恐らく大河内氏の独創と見ていいものであろう。そういう意味に於て、科学主義工業の観念は、全く大河内氏のものにぞくする。
氏の独創性は、つまり科学主義工業の日本に於ける実施に関する観念の内にあったわけだ。人も知る通り日本に於ける農村人口のパーセンテージは諸外国に較べて著しく高い方であるから、科学主義工業の日本に於ける実施は、農村をめぐっての科学主義工業の問題に帰着する。だから日本に於ける科学主義工業は、必然的に、「農村の工業」の問題に帰着せざるを得ないわけであり、そして農村が工業村や工業都市となる代りに、あくまで農業生産を本業とする所謂「農村」に止まる限りは、「農村の副業」の問題に結びつかねばならぬ。かくて氏の科学主義工業に関する啓蒙的な小著の名が『農村の工業と副業』となるわけだ。
だが之は氏の最近の[#「最近の」に傍点]観点なのである。科学主義工業という観点は、全く最近のものであるらしい。なる程従来と雖も理化学研究所の工学的技術学的研究は、科学的[#「科学的」に傍点]であることを以て知られている。この研究所の研究成果の実施機関とも云う
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