真の愛の情熱は驚くばかりに具体的なものである。必要を鋭くかぎわける。」之はみずから、この社会に於ける愛の矛盾を或る程度解き得た人の言葉である。この幸福な(?)著者は、或る(呵然? とでも云うべき)濃まやかな思いやりでこの階級社会の塵にまみれた愛慾の葛藤を打診している。「新しい一夫一婦」、「夫婦が作家である場合」、「インガ」(「ソヴェート文学に現われた婦人の生活」)、などがそれである。
「暮の街」や「村からの娘」は、大抵の婦人評論家が取り上げる婦人問題の評論であるが、中条氏の場合は、ただの所謂婦人問題をつき抜けている点を買わねばならぬ。――「文学に於ける今日の日本的なもの」は、文学に於ける日本的な動きに対する世間の諸批判の内で、最も根柢もあり切実でもあるのだ。特に明治以来の文学運動の歴史に沿うて述べてある処は威力がある。「『大人の文学』論の現実性」と「『迷いの末』――横光氏の『厨房日記』について」とは、日本的なものをかつぎ回る数名の文士の心情を、辛辣に且つ鮮かに暴露する。――「芸術が必要とする科学」は色彩論から始めて文章道にまで至る異色のある省察で、示唆に富んでいる。
氏の作家論は、専門の評論家も容易に追随出来ぬ底のものを含んでいる。「トゥルゲーネフの生きかた」は彼の階級的制限を説く点で教える処が多く、ゴーリキーに関する三つの評伝(尤も多少重複しているが)は、伝記として面白い。「ジードとそのソヴェート旅行記」は、ジード批判の一つとして記録される価値がある。「『或る女』についてのノート」は多少資料的検討に基いた好論文である。
私は作家としての中条百合子に就いては、新しいモラルの実際的な探求者として、作家一般(独り婦人作家に限らず)の内の白眉の一つと考える。世間で必ずしもそうは思わぬらしいことは、私にすれば一つの不思議だ。処がこの評論集は、評論家としての中条百合子氏の位置をハッキリと決定するものだと思う。物ごとを分析的に考えながら感情を整理出来る人は、作家一般の内で珍しいと思う。氏の合理的精神とでもいうものが、或いは文壇の地膚に合わぬかも知れない。だが夫は広い世間からすれば何等の問題でもないことだ。
ただ評論家としての中条百合子氏は、テーマをもっと婦人問題、女の問題、からつき離す必要があるだろう。評論が身辺随筆の名残りを止める限り、そして彼女が女である以上、この女らしい制限を脱し得ぬわけだ。多分氏は女であることで、自分で少し損をしているかも知れぬと思う。
(一九三七年四月・白揚社版・四六判三九一頁・一円五〇銭)
[#改段]
14[#「14」は縦中横] 清水幾太郎著『人間の世界』
「人間に就いて」、「悪に就いて」、「歴史に就いて」、「慣習に就いて」、「文化に就いて」、「言語に就いて」の七篇からなるエッセイであり(その内雑誌ですでに見たものもある)、この七篇を通じて著者は全く首尾一貫した見地を取っている。それは個人主義並びに合理主義という見地だ。本には著者の見地を包む著者の願いというようなモラルがあるものだが、この著者の願いは強い人間となることであり幸福になることである。それが個人主義と合理主義とを要求する。
人間については、人間をば人間を超えた人間以上のものに対立させる。処で人間はこの超人間的なものをば却って人間以下のものとして踏み超えなくてはいけない、とするのがヒューマニズムだという。だが、所謂ヒューマニズムの考えるヒューマニティー(人間の本性)は、なお文化的なもので、過去の歴史や慣習や制限にアダプトしたノモス(法則)の世界にぞくする限り、真のフューシス(自然)にはぞくさぬ。フューシスにぞくする人間こそは個人であり、之にして、初めて人間的なものを抑えつける超人間的な社会に真に、反逆し得るというのだ。そして之が現代の生きたヒューマニズムであろうと云う。
「自己を滅却した謙虚な人間が出来上った人間或は完成した人間の姿として、個人主義者という言葉は非難の言葉として通用する。」だが「自己に対する厚き信頼、傲慢、自尊の如きを欠いて生ずる思想があるであろうか。」『社会と個人』の著者である清水氏のモラリストらしい既成常識批判の一端を之で知ることが出来るが、この個人主義的主張は、一方現代の封建主義的な全体主義に向けられていると共に、他方かつての擬似マルクス主義的な個人否定主義の如きものにも向けられている。之が現代のインテリゲンチャの常識とよく一致していることを注意しなくてはならぬ。
社会と個人との対立は、この本ではノモス(法則)とフューシス(自然)との対立として、一つの一般的な原則にまで高められている。そして之がこの著書を一貫する分析のメカニズムとなっている。超人間的なもの・対・人間個人が夫であったが、悪も亦ノモスの否定を指す
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