る。
で、兼子氏のような哲学に何か意味があるとすれば、それは一種の人間学と国粋哲学との結びつきを、相当ハッキリと体現して、現代のファッショ化したブルジョア哲学の漫画的一風景を点出した点にあるのである。
「独仏」ではこの頃色々の意味でのアントロポロギーが流行している。性格学とか人相学とかが、医者や心理学者や哲学者によって担ぎだされている。夜店で手相を見る易者が、哲学博士と名乗っているのは、今日では大いに冗談ではなくなって来たのである。
この人間学は治療とか開運とかいう手取り早い御利益に結び付いているのだが、これがもっと陰険なのになると、「体験」という範疇に訴える場合が多い。もっとも体験といっても色々あるが、この頃使われるものは、歴史や社会の内部を遍歴する様な科学的な意義を持った体験(ディルタイなどに見られる)のことではなくて、矢張り、手取り早く、身体と結び付いた言葉通りの「体験」でなくてはいけないらしい。「悟り」とか「肚」とか、男がすたるとか男にするとかいう「男」とか、およそ安価なイージーゴーイングな体験がもっとも良いらしい。こうした「体験」の御利益は、世界の問題を、自分の一身上の肉体に集中することによって片づけることが出来る、という点にあるのである。
こういう「精神的」な肉体主義式体験の専門家又は愛好者を以て自ら任じる人々が、今日では大抵、国粋ファッショ哲学者だという事実は、注目すべき根本公式である。読者はすでに、「精神的な」肉体家[#「肉体家」に傍点]倉田百三氏の場合を知っているだろう。それから又、西田哲学を禅的な・スティグマ的な・少女ホルモン文学的な・「体験」の哲学だと考えている男や女は至るところに満ち充ちているが、そういう所から西田哲学で思想善導をやろうと考えている人も決して少なくない。そして、今日では肉体主義式「体験」が、東洋文化や国民思想や日本精神への鍵だというこの点を、最も露骨に組織的に示しているのが兼子氏のような「哲学」なのである。
私は別に兼子氏の件を問題にしているのではない。之は単に引合いに出しただけなのだから、「道友」達に何とかかんとか云われることは迷惑である。問題はわが国の現在に於ける哲学的イニシャティブの惨めな退行現象にあるのだ。例えばドイツ哲学などはその精神的なペダントリーにも拘らず、今では極めて低級な文化的水準のものだとしか考え
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