T点]層をも検べて欲しかったということだ。蓋しここでは、企業形態其の他と並んで、新聞紙という言論的商品に特有な、社会的・階級的・制約が発見されるだろうからである。尤もこの調査は、単に新聞社への問い合わせだけでは出来ないわけで、色々複雑な調査方法を研究してかからなければならないだろうが。
調査票を送ってやった新聞社は九二一社で、回答が来たのはその四二・九パーセントの三九五社である。新聞社自身この企てにあまり興味を有っていないことはやや意外で、ことに『東京朝日』や『東京日日』は回答をしていないらしい。吾々は新聞業者のこの種の意識に対して多分の不満を表するものだ。一〇以上の発送数のある府県で、五〇パーセント以上の回答率のあったものは、神奈川(五〇%)、茨城(六六・七%)、宮城(六〇%)、富山(一〇〇%)、大阪(六二・二%)、愛媛(六四・三%)、大分(六三%)、樺太(七六・二%)、朝鮮(六三%)である。大阪が六二%以上であるのに、東京は三四・一%にしか過ぎない(発送数は東京四一大阪四五)。――之自身又新聞界調査の一資料となるかも知れない。
同研究室の実際上の指導者小野秀雄氏は、最近時潮社出版『現代新聞論』を出版した。まだ手にしないが期待を持っている。
[#改段]
6 易者流哲学
――反動哲学の一傾向――
私はかつて或る新聞で、阿部次郎教授が『改造』にのせた論文に対して少し悪口を書いたことがある。「文化の中心問題としての教養」というのが教授の論文の題で、私はこれに対して、文化とか教養とかいう一種特別に取りすました概念では、時代の問題は一寸片づかないのではないか、という意味を述べたのである。教授の論文は、それにも拘らず、昔ながら甚だ透徹した、しかも甚だ「阿部次郎」らしい独自のものであったことはいうまでもない。
所がその後暫くして、学校気付で未知の人から私あての封書が来た。開けて見るとこうである。お前の次郎批判は極めて浅薄である、阿部次郎氏の例の論文は実は、兼子某という人がドイツ文で印刷にした本の焼き直しだということを知らないか。この本は日本でこそ人が注意しないが、ドイツやフランスでは有名なもので、方々で研究会さえ持たれているのだ。今に日本にこれが逆輸入されてくるだろうが、その時はお前は自分の次郎批判が如何に無知で浅薄であったかを恥じなければならぬだろ
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