サしていないなどと、云えるものがあったら会って見たいものだ。思想と文学との結合の仕方には、こういうものがあるのだということを、思い知るべきだろう。ディドローの風刺文学としての哲学書『ラモオの甥』(本田喜代治訳)と、色々の意味で、全く好一対である。
『ラモオの甥』の方は同じ面白くても、少しムズかしい点もあるが、『カンディード』の方は大変やさしく面白い。心情のやさしいカンディードの冒険的な運命物語りで、アラビヤンナイトみたいな処もある。が第一の要点はライプニツ哲学の予定調和説と夫に結びついている神義論と楽天説との、経験的事実による転覆である。経験的事実の世界はありとあらゆる不幸と悲惨とに充ちている。著者は之をまるでモダンな筆致で坦々とリアリスティックに描き出す。第二の要点はその不幸と悲惨との無用な充満に最後の責任を持つものは、坊主と教権組織だという一貫した主張だ。悪いことは皆んな坊主が一役買った結果に他ならない。第三の要点は、この悪魔的ペシミズムの哲学にとって唯一の息抜きである理想郷エルドラドーであり、そこで発見される処の「科学」への信頼と希望とだ。処でどの要点も、まことに近代的に生々しい意識を持っているのだから、不思議である。この古典を読むと、現代人の作品でもあるかのような気がするのだ。
[#改段]


 9 歴史哲学の一古典


 都合で一回休んだが、続けようと思う。私はこの頃類似アカデミシャンという言葉を使って見ている。本質に於て非大衆的なアカデミシャンであるに拘らず反アカデミーの意識を有つことによって、一応反逆的で進歩的な大衆味を有っている今日の若い優秀な自然科学者などをそれだと考える。併し文化理論家の内にもこのカテゴリーに這入る人が、最近の日本では特に多い。之を私は文化的自由主義者という風に呼んで見たことがある。私はこういう種類の人達には充分の共感を感じるものではないが、現在に於けるその役割のプラスに就いては、充分の尊敬を払うことが出来ると思う。多くの危険を顧みながらではあるが。
 清水幾太郎氏(『人間の世界』をこの間書いた)などはその典型であるかも知れぬ。もう一人挙げるなら樺俊雄氏である。この人達を一種の社会哲学者とか歴史哲学者とか考えてもいいだろう。或いは文化哲学者とも云うべきだろう。今日の思想のポーズとしては、一つの大きな流れにぞくしている。その樺氏がJ
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