を取った所謂哲学という形を有つ哲学よりも、文学主義的な立場をハッキリと表面に現わし、従って文学的な内容の豊富なような哲学が主として選ばれた。『ニーチェ全集』やキールケゴールのもの又或る制限の下では『ゲーテ全集』などが夫だ(ニーチェに関する研究書は著書と訳書を加えて三四種に及ぶ)。之に反してプロパーなブルジョア哲学の出版物は、解説風のもの(岩波の『大思想文庫』)を除けば、非常に少ない。
 この中性的イデオロギーによる出版現象の台頭に直接する、哲学・思想・社会・理論・其の他の一種のこの文学化と関係するものに、批評の問題への関心が存する。ティボデ、ファゲ、サント・ブーヴのものなどが訳されている。之は元来、吾々の問題探求の深化でなければならないのだが、下手をするとその皮相化に終る危険があるだろう。
 政治上の自由主義はとに角今日極めて困難に面接している。之に反して、右に見たような意味に於て、文化上の自由主義は中々盛んであり、又根強いものがあると考えられる。もし左翼的な進歩性と、自由主義者の進歩性とがあるとすれば、この両者がいかに結びついて行くかは、一九三六年度の出版界に就いての興味ある観点だろう(私個人の関心が累して遺漏と偏局とがあったと思う。紙数の制限のために省いたものも多い)。
[#改段]


 ※[#ローマ数字5、1−13−25] 余論




 1 ブック・レヴュー論


 厳密に考えて行くと、ブック・レヴューというものの意義は意外の処へ連っている。元来「本」という物が、一方に於ては思想の表現物だし、他方では之とは独立的に、一つのジャーナリズム的商品で、印刷や装幀という物質的条件を含む。本に現われた表現報道現象の、表現上又は報道上の価値は、必ずしもそのまま本という商品の交換上の価値であるとは限らない。現に、本という商品はその内容の良さだけで売れるのではなくて、本の名前や著者の有名さや人気や時宜や広告のスペースや広告文の偉力で売れるわけだから。
 本というものがこういう二面を備えたもので、而もこの二面は必ずしもうまくソリの合ったものではない。だから、ブック・レヴューも亦単純なものではない。思想表現物としての本という側からブック・レヴューを試みれば、之は正に評論・レヴューというものであって、単に本自身を批評するのではなく、之によって著者の思想自身を批評するのだ。この種の
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