ではなくて一般的理論[#「理論」に傍点]である、というのである。――なる程こういう区別が必要であることは誰でも認めなければならない。
 だが問題は、こう区別されたもの同志の連関[#「連関」に傍点]がどう与えられるかである。社会学を経済学・政治学・史学・等々から区別することこそ、ブルジョア社会学のもっとも戯画的に徹底純化されたもの――形式社会学――の、生命ではなかったか。
 マルクス主義的社会学は、こういう形式社会学との原理的な対立をハッキリさせるためにも、その一般的理論たる所以の一般性[#「一般性」に傍点]の吟味に、意識的でなくてはならぬ。
 ブハーリンは唯物史観が単なる方法[#「方法」に傍点]には尽きないことを力説している。だが凡そ体系[#「体系」に傍点]から機械的に区別された単なる方法があり得るだろうか。それが経済学・政治学・法律学・文化理論・歴史学・等々を貫く一貫した方法であればこそ始めて、唯物史観は、体系的理論[#「理論」に傍点]となることが出来、またならねばならないのである。これを外にしてそれが理論であり得る理由はない。だから唯物史観(マルクス主義社会学)は、他の諸社会科学から単に機械的に区別されない所に、例えば形式社会学などと資格の異った点があるのである。
 さて一体我々は何のためにブハーリンを持ちだしたか。外でもない。住谷悦治氏の『プロレタリアの社会学』を、今いった点について、ブハーリンの『史的唯物論』に比較するためである。ブハーリンの書物の方は相当大きく、これに反して住谷氏の方は小さいから凡そ二つを比較することは無理に見えるかも知れないが、善い意味における内容の通俗性・大衆性・とその総括的性質とからいって、わが国で書かれたものとしては、住谷氏のこの書物を外にしてブハーリンのものに較べるべきものを私はほとんど知らないからである。――そこで氏は、今いった点について、どうブハーリンと異るか。氏もまた少なくとも社会学という概念については完全にブハーリンを採用しているようである。
 氏の書物はブハーリンのものよりも、その視角は遥かに高く、問題を取り上げるにも、より政治的な線に沿うている。この点からだけいっても、プロレタリアのための「入門」として、氏の著書がより有益であることについて注意を喚起しなければならない。
 だが社会学が有つ一般性[#「一般性」に傍点]と
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