あろう。併しこうした関係の合理性は、つまり産業合理化[#「産業合理化」に傍点]の場合のような意味に於ける合理性なのであって、一般の抽象的な合理性ではあり得ない。と云うのは一定の政策的な目標に照して決って来る合理性だ。産業合理化はあまり賃金の社会的合理化(高賃金)のことは計算に入れない資本主義的習慣であるようだが、併しそれが科学主義に乗り替えることによって、この新しい産業合理化は高賃金を計算に入れなければならぬようになるというのは、どういうわけだろうか。日本の産業が国際的に太刀打ち出来るようにという目標によって、立派に科学主義的工業の合理性は設定され得る。この合理性に照して、最も合理的なるものは、低コストと同時に又より以上の低賃金ということではあるまいか。そうでないとしたら、もっと何か別な目標に照して合理的である処の合理性が介入しているのでなくてはならぬ。ではそれは「科学」か。併し科学は低コストを必然にしても、低賃金であることを妨げる何物をも含まない。それとも社会に於ける一般的な合理性(正義感とか何等かの理想的精神の如き)にでもよるのであるか。だが大河内氏の科学主義に於ける科学はそういうものの合理性の支柱となれるのだろうか。
 低コストの必然性は、科学主義工業の観念によって、よく理解出来るだろう。それは次に見る。だが科学主義工業による高賃金の必然性は、どうも理解出来ない。そこには科学主義の科学以外のものがある。そしてそれは日本工業の海外発展という目標と必ずしも一致しないような或る社会正義的なものでさえあるようだ。もしこの二つを強いて結びつける観念を見出そうとするならば、どういうものがいいだろうか。勿論この結びつきは、本当は成功しないだろうから、単に観念的な結びつきで結構なのだが、夫は例えばどういうものだろうか。社会的常識によっても想像出来るものは、恐らく農村精神[#「農村精神」に傍点]という観念のようなものではないだろうか。――果して大河内氏は、そこへ行くのである。
 だがまず低コストの理論を見よう。ここにこそ「科学」の得意の世界がある。まず工業立地の科学性。原料・運賃・其の他一切のコストのファクターの総和を、最小にするような科学的工業立地である。之に対立する云わば資本主義的立地(?)は、科学的に無知な資本家の陋習と、既成社会の情実による合理化の不徹底とを意味している
前へ 次へ
全137ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング