がジードの本意にかなっているかどうかは知らぬ。つまり堀口氏の右のような解説が、当っているかどうかは知らぬ。併しどうも直接の印象は誰によってもこのようなものであろう。して見ると、『修正』のジード氏はソヴェートの敵になったというのか、『紀行』に於けるソヴェートの友はその敵に豹変したのか。
 君子豹変は嘉すべきであるが、併し『紀行』と『修正』との間には、ジードにとってどんな出来事が起きたというのだろう。なるほどソヴェートに於ては粛党運動にからんだ色々の刺激的な事件が起きた。だが、それが急にジードをソヴェートの敵とするには足りなかったことは、『修正』を読んでも明らかである。ジードは改めて旅行のし直しでもしたのであるか、そうでもない。彼を『修正』へ刺激したのは専らジード的見解の反対者であり、ジード攻撃者の活動である。それが豹変のためのほとんど唯一の新条件だ。そしてこの豹変を表現するために材料となったものは、即ちシットリン、トロツキー・メルシェ、イヴォン、ヴィクトオル・セルデ、ルゲェ、ルドルフ其の他の諸家の研究だ。つまり「統計」その他のものだ。ジードの実地の見聞ではないのである。
 でこうして彼は、友から敵へ豹変した。その条件か責任か何かは、本来の対象であったソヴェート自身にあるよりも、ジードに対する攻撃者の手にあったのである。ジードはソヴェートの友としてソヴェートを批判した。処が偶々それがひどく攻撃されたので、自分の説を守り続けるために、ソヴェートの敵となることをも辞しない、という筋道である。この筋道は正に転向者の筋道である、転向者の心理の公式そのままである。ソヴェートの友であろうと、敵であろうと、私などの直接関わりのあることではない。ただ私に気になるのは、この心理だ。恐らくジードの誠実を以てしても自覚し得ないだろうこの心理だ。而もそれが最も誠実であった筈のジードに於てさえ、最も典型的に現われるとは。
 ジードのような文化主義者が誠実であることを信用していいが、併しその誠実そのものは信頼出来るとは限らぬ、と私が初めに云ったことは、恰もこのことなのだ。個人的な不満から、段々と客観的な認識を歪曲させて行くということは性格の薄弱な者や、一種の性格破産者のもつインチキ性であるが、良心のきびしい文学者など、間違ってもこういう陥井に墜ちてはならない筈である。修正を読んで何より直接に感じる
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