ものであるが勿論彼はキホーテではない――に敬服さえするのである。
ただもし疑う余地があるとすれば、ジード氏やその他の文化人が、事実上持っていることに間違のないその誠実そのものが、どれだけの信頼に値いするかである。誠実は信用されていい、だが信頼されてはならぬ場合が多い。人間性や良心というものと同じに、誠実は如何なる誠実であるかを問わねば、単に誠実であるというだけでは、個人的に信用出来ても、客観的には信頼出来ないことがあるのだ。
私はかつて以上のような主旨を、手短かに一二度書いたことがある。処が今度堀口大学氏訳の『ソヴェート紀行修正』を読んだ。その結果は、右の私の見解そのものを修正しなければならなくなったのである。ジード氏の修正が修正であると共に或る方向の発展であるように、私の読後感も亦、前言の修正であると共に、或る方向への発展を余儀なくされる。
まず『紀行』と『修正』との出版の直接目標の差に、私は第一に気がついた。紀行の方はソヴェートをよりよく理解させるために、ソヴェートの友に与える文章である。それを書いているジード自身が、みずから何遍も強調しているように、ソヴェートの友として語っているのである。処が『修正』の方は、『紀行』に対する反対者への反駁が直接目標だ。ここではジードはソヴェートのために物を云っているのではなくて、専ら自分の見解を維持するために物を云っている。ここでのジードは、もはや、つけ足しにそう云っていないでもないに拘らず、ソヴェートの友としてではなくて、専らジードの友として物語っている。「イライラした」語調や「ギラギラした」文体と批評されているのは、彼自身何を云おうと守るべきものはソヴェートではなくなってジードの思想自身になっていることを告げているのだ。
私は之を不当だとも正当だとも云わない。併しまず第一に、不可解なのは訳者堀口氏の左の「あとがき」の一部に関する点だ。『紀行』中でこう叫んだその声も、今は絶望と反抗の声に紛れてしまっている。曩には、人間的感情といい、青春といったようなものは、無条件に承認し得たのだった。それが「修正以前の唯一のオアシスだったのだ。ところが、今はただ良心に従ってソヴェート連邦に容赦のない反撃を加え、徹頭徹尾ソヴェートの敵になってしまうより仕方がなくなった。」私にとっても亦、『修正』の読後に、訳者と似た印象が残る。この印象
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