ものとして、或る種の評価を受ける。歴史も亦二つの意味を有つ。ルネサンス以来十八世紀に至る啓蒙や進歩の観念は、十九世紀の、特に反動に立つコントの、歴史観念とは反対であるという意味に於て非歴史的であるが、併し実は之こそ本当の歴史であり創る処の歴史であるという。之がフューシスにぞくする歴史である。之に反してコント風のノモスにぞくする造られた歴史は、過去に向く歴史であり、そこで考えられる進歩は秩序と共にあるものでしかない。然るに「ドルバックに於ける進歩は秩序の否定にあった。」ではマルクスでは如何?
制度と慣習がノモスにぞくするのは当然である(慣習は習慣から区別される)。文化も亦ノモスのものにしか過ぎない。その根柢にあるフューシスは文明でなくてはならぬ、とする。最後に言語の章で、レヴィ・ブリュールの所謂パルティシパション(未開人の論理)が、現代に於ても白昼堂々と通用している天下の情勢に、眼を向けることを知らない社会学者達の愚劣に、釘をさしている。――本書に見られるものは文化主義からの脱却の努力である。だがその脱却が個人主義を結果するというのが、独特な特徴なのである。それからこの個人主義と「合理主義」とがどう結びついているかは、現代の常識としては理解出来ても、理論的な解明に乏しいようである。にも拘らずこの本は現代のインテリゲンチャの若いジェネレーションに訴える魅力に充ちている。斬然として特色の書だ。
(一九三七年三月・刀江書院版・四六判二一一頁・一円二〇銭)
[#改段]
15[#「15」は縦中横] 新明正道著『ファシズムの社会観』
大体に於てすでに発表された論文を編集したものであるが、完全に体系立った著書である。第一部「イタリアのファシズム運動」、第二部「イタリアのファシズムの社会的国家的観念」、第三部「イタリアのファシスモと関連する社会的体系」と注釈(引用文献)とからなり、第一章は主としてイタリア・ファッショの政治的社会的活動の解説・特色づけ・批判・を与えたもので、本書の予備的知識を整理するという意味での緒論をなす。この部分だけを取って見ても、日本文で書かれたイタリア・ファッショ研究として高水準なもので、執筆の時期が比較的新しいということと、学究的な異論批判を通じて処理されていること、そして著者が日本に於ける最良の社会学者であることを示す冷静で緻密で且つ進歩的
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