しい制限を脱し得ぬわけだ。多分氏は女であることで、自分で少し損をしているかも知れぬと思う。
 (一九三七年四月・白揚社版・四六判三九一頁・一円五〇銭)
[#改段]


 14[#「14」は縦中横] 清水幾太郎著『人間の世界』


「人間に就いて」、「悪に就いて」、「歴史に就いて」、「慣習に就いて」、「文化に就いて」、「言語に就いて」の七篇からなるエッセイであり(その内雑誌ですでに見たものもある)、この七篇を通じて著者は全く首尾一貫した見地を取っている。それは個人主義並びに合理主義という見地だ。本には著者の見地を包む著者の願いというようなモラルがあるものだが、この著者の願いは強い人間となることであり幸福になることである。それが個人主義と合理主義とを要求する。
 人間については、人間をば人間を超えた人間以上のものに対立させる。処で人間はこの超人間的なものをば却って人間以下のものとして踏み超えなくてはいけない、とするのがヒューマニズムだという。だが、所謂ヒューマニズムの考えるヒューマニティー(人間の本性)は、なお文化的なもので、過去の歴史や慣習や制限にアダプトしたノモス(法則)の世界にぞくする限り、真のフューシス(自然)にはぞくさぬ。フューシスにぞくする人間こそは個人であり、之にして、初めて人間的なものを抑えつける超人間的な社会に真に、反逆し得るというのだ。そして之が現代の生きたヒューマニズムであろうと云う。
「自己を滅却した謙虚な人間が出来上った人間或は完成した人間の姿として、個人主義者という言葉は非難の言葉として通用する。」だが「自己に対する厚き信頼、傲慢、自尊の如きを欠いて生ずる思想があるであろうか。」『社会と個人』の著者である清水氏のモラリストらしい既成常識批判の一端を之で知ることが出来るが、この個人主義的主張は、一方現代の封建主義的な全体主義に向けられていると共に、他方かつての擬似マルクス主義的な個人否定主義の如きものにも向けられている。之が現代のインテリゲンチャの常識とよく一致していることを注意しなくてはならぬ。
 社会と個人との対立は、この本ではノモス(法則)とフューシス(自然)との対立として、一つの一般的な原則にまで高められている。そして之がこの著書を一貫する分析のメカニズムとなっている。超人間的なもの・対・人間個人が夫であったが、悪も亦ノモスの否定を指す
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