反対に、作家は多数者の希望、全国民の希望に応えている」(一七四・一七五)。だが後ではこう思いかえす、「一国の市民が一人残らず同じような思想をもつようになれば、……こうした精神の貧困を前にして何人が『文化』を語る信念をもち得るだろうか」(一三二)。「こうした事も政治的には有用なのかも知れない。がその場合は文化などといったことは口にしないで欲しい」(一四七)。「この『理想的なもの』から『政治的なもの』への移行は、不可抗的に一種の『転落』を伴うものであろうか」(一二八)。
 かくて最初にヒューマニティーや文化からジードによって区別された「ソヴェート」は、ジードの「ユートピア」であった処の「自由」を満足させなかった。「ソヴェート」の「政治」はジードの「文化」を満足させなかった。ジードのアイディアリズムはソヴェートのリアリズムと撞着した。何等かの観念論(理想主義)者が現実の前に戸迷ったという現象は、驚くには値いしない事だし、又喜んだり怒ったりするにも値いしないことだ。初めからそうあるべきものだったのだ。読者は文化的自由主義者としてのジードの誠実を疑うことは出来ない。そしてジードの言葉の意義の重さを知らねばならぬ。併し文化的自由主義者の誠実よりも一層リアルであるとしたならば、どうだろうか。
 (一九三六年・第一書房版・四六判二四六頁・一円二〇銭)
[#改段]


 13[#「13」は縦中横] 中条百合子著『昼夜随筆』


 随筆という名であるが評論集である。二十七の文章が社会評論・文芸時評・作家論・の三篇に分類されている。巻頭のやや長い論文「若き世代への恋愛論」は書き下しで、あとは大体再録されたものと思う。旧著『冬を越す蕾』から二三採用されたものがある。
 序の言葉、「私は、小説を書いて行く地力の骨組みを強くする意味からも、適当な機会に評論風な仕事に於て自分をもっと鍛錬してゆきたいと希望している」という言葉は、私が以前から作家に対して持っていた或る疑問に答えるものとして、感銘が深い。評論の文筆的な意義をこういう形で理解している作家は少ないのではないかと思っていたからである。
「若き世代への恋愛論」は、近代日本の恋愛観の発達を叙したものだが、最後に云っている。「若き世代は、生活の達人でなければならない。……恋愛や結婚が人間の人格完成のためにある、と云えばそれは一面の誇大であるが、
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