だろう。この本に於けるジード自身に対する私の感想はすでに「文化的自由主義者としてのジード」という拙文(「読書法日記」中)で述べた。ここではその要点をジードみずからに語らしめよう。括弧内の数字は頁数である。――跋には「訳者の言葉」がある。
「私にとっては私自身よりもソヴェートよりもずっと重大なものがある。それは人類でありその運命でありその文化である」(一三)。「云わばわれわれのユートピアが現実のものとなりつつある国がソヴェートであったのだ」(一七・一八)。処が「これらの住宅の『内部』で私がしみじみと感じたあの異様な物悲しい印象を、どう云い現わしたらいいだろう。それは謂わば完全な非個性化といった感じのものである」(七二)。
「規律の範囲内での批評はどんなにやっても構わない。だが規律の範囲を一歩でものりだした批評は許されないのである」(八〇・八一)。
「いま尚革命的精神によって動かされている人々や、またこれらの連続的な譲歩を妥協とみなす人々が、邪魔物扱いをうけ辱しめられ芟除される」、「革命的精神(より簡単に云うと批判精神)はソヴェートではもはや必要でない、とあからさまに云ってのけた方がいいのではなかろうか」、ああ「順応主義」なる哉(一一二・一一三)。
「したがって現在の情勢に満足の意を表しないものはみなトロツキストと見なされるのである」(一三〇)。「レーニン主義からの逸脱はこれ以上なお必要であるだろうか」(一二五)。
「家族制度――『社会的細胞』としての――や遺産相続制の復活とともに、享楽的な嗜好、私有財産にたいする慾望が、ついに僚友的精神や共有や共同生活の要求を追いこしつつあるように思われる」。「一種の貴族層」(一〇五・一〇六)が出来つつあり、「このプチ・ブルジョア的精神はソヴェートに於て追々拡がってゆきつつあるように思われる」(一一〇)。
「今日のような社会形態に於ては、すべて偉大な作家や芸術家は本質的に反順応主義者である筈だ」(一三六)。だが「最早反対すべき何らかの対象を失ってしまって、ただ流れの儘に流されるだけのことになれば、どうなるだろうか」(一三八)。併ししばらく前にジードは演説している、「ところで今日ソ連邦においてはこの問題ははじめて、すっかり異ったかたちで提出されているのです。即ち、作家は革命家でありながらもはや反対者《オッポーザン》ではない。まったくその
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