こう説明している、「現代の日本作家の多くは、鎌倉足利時代の禅坊主や徳川時代のサムライと原則的にあまり違わない日常生活を営んで居り、又頭の中にも彼等の如き自然観や道徳観の残りをこびりつかせているので、それが彼等に芸術に対する本格的要求の豊熟をさまたげているのだとなる。禅坊主やサムライの諸観念、心理、趣味は、元来、芸術を瘠せさせる性質のものなのである。」
さてこの二つの観点が、各篇の文章の殆んど凡てに於て、色々の側面から展開される。上高地に於て山の美を論じるにしても(田部重治氏式な無限・崇高・超俗・等々の礼賛に不満な著者は、物質の力の大きさに山の美を見出す)、日本精神的マンネリズムの打破に力める。日本特有な文学形式として絵巻物形式を取り出して、之を例の随筆的特性や、新聞小説の形式と関係づける。著者によれば日本の新聞小説は必然的に絵巻物形式を選ばねばならぬが、之が決して文学の大きな発達に幸するものではないという(大熊信行氏の絵巻物形式肯定論と対立)。「純粋小説とは?」に於ては横光利一式論理の日本的弱点を指摘する。「日本文学に於けるエロチシズム」に於ては、日本文学の特性がその感覚的な卓越にあることを認めながら、次のような批評を加える、「が、さて感覚が肉体の質量から離れて宙に浮いたものになれば、もう感覚の行き止りである。私としては感覚やエロチシズムを突き抜けるにしても、それによって肉体そのものの世界へ、物質の世界へ、大きな世界認識へ、社会の把握へと出て行く道を選ばねばならぬと考える。この点では我々は鈍感なる西洋作家たちから学ばねばならぬ。」
以上は第一篇であるが、第二篇は民族文化を世界文化の観点から見る。「芸術の国民的評価と世界的評価」に於ては、三つの評価の拮抗によって両者の高まった一致の可能性を説く。之はヨーロッパで日本文学を見た著者の実感を最もよく云い表わしているだろう。「日本文学翻訳問題」では、日本文化の国粋主義的宣揚としては撞着を免れないが、日本文化の国際主義的強調として重大な意義を見出されている。――第三篇は日本文壇に於ける矛盾を摘発しその対策を考察したものとして、単なる文壇人の企て得ない処だろう。総合雑誌や文学雑誌に対する批判も相当的確である。特に日本に於ける単行本文化の極度の不振を終局に於て取次店経由の委託販売制度の結果であるとし、雑誌発行資本の回収が年四回
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