遺漏に他ならない。
 かくて吾々は、ホッブズの倫理学とそれに基くブルジョア倫理学なる独立領域の成立との内に、近代ブルジョア通俗常識[#「通俗常識」に傍点]による道徳観念の、根本的な諸規定(夫を私は第一章で述べた)の殆んど一切の萌芽を見ることが出来ると云っていいだろう。――だがそれにも拘らずここにはまだ、近代ブルジョア観念論的倫理学の、最も大切な二三の根本問題が盛られていないのである。現にホッブズのは本来が唯物論的倫理学に他ならなかった。近代ブルジョア観念論が最も愛好する倫理学的テーマが、それにはまだ欠けているのだ。そしてこの特有に近代倫理学的なテーマを介して、ブルジョア観念論一般が、ブルジョアジーの通俗常識を踏み越えるようにさえ見せかける筈である。――一体ホッブズ倫理学では、すでに古典的に現われた道徳の諸問題を、何と云ってもあまりに機械的にそして簡単に、片づけて了った憾みがあっただろう。

 ブルジョア倫理学の観念的代表者は他ならぬI・カントである。尤もカント哲学は必ずしも純粋なブルジョアジーの哲学ではなくて、それのプロシャ的啓蒙君主的変容に相当するものであるが、併しカント哲学の新鮮味はヨーロッパ・イギリス・ブルジョアジーの生活意識を積極的に吸収した処に存する。彼の世界市民[#「世界市民」に傍点]の理想は之を最もよく云い表わしているだろう。
 ホッブズでもそうであったが、カントの倫理思想はその国家・法律・政治の理論と密接な関係に立っている。又彼はホッブズと同じく、自然法の正統にぞくしている。だがカントの特色は、そうした国家・法律・政治等々の理論とは比較的独立[#「比較的独立」に傍点]に、「実践理性」の領域を、「道徳」(Sitte)の領域を、取り出し得ると考えた処にあるのである。カントの手によって「実践理性批判」とか「道徳の形而上学的原理」とか「倫理学」とかいうものが、独自な封鎖された学問領域として掲げられた。――カントは主として、道徳の世界を自然界・経験界から峻別した。この区別はカントの考え方の至る処に、体系的に貫かれているのである。だから又、カントによる倫理学の独立[#「倫理学の独立」に傍点]は、極めて体系的な根拠を有っていることを忘れてはならない。
 カントによれば理論理性は夫が経験的に用いられる時、と云うのは感性的な直観乃至知覚と結合して用いられる時、経験界の自然科学的な認識を齎す。之以外に正当に経験とか認識とか呼ばれるべきものはない。つまりこのような現象界に就いてしか、吾々は経験や認識を有てないわけなのである。現象界の背景にあるかのように考えられる本体界(物そのものの世界)は理論理性の対象ではあり得ない。之を無理に理論理性の対象としようとすると、二律背反というような困難が発生するのだ、と彼は云う。処でこの本体界(ノウメナ)に這入り得るものは、理論理性ではなしに正に実践理性[#「実践理性」に傍点]なのである。この実践理性の世界が道徳界に他ならない。
 なる程この道徳界は経験界(自然界)と全く無関係なものとは云えない。事実道徳界は経験的現象界を通じて見出される他はないだろう。人間は道徳界にぞくするものとして自由[#「自由」に傍点]である、だがこの自由も因果律に従って行動する経験的な人間自身が持つ処のものだ。で、二つの世界は無論無関係ではない、ただ全くその世界秩序が別なのだ、と考えられている。――だがこの全く別な秩序界の間の、体系的な関係は何か。両者が無関係でなくどこかに接触点があるということと、この接触が体系的に明らかであるということとは別だ。この意味で道徳界と経験(自然)界、倫理学の領域と経験科学的認識の領域とは、どう関係するか。この問題は当然カント哲学全般の体系的な構造が何であるかを尋ねることだ。処がカント自身によっては、実はこの関係が殆んど全く有機的に解かれていないのである。なる程例の『判断力批判』は理論理性と実践理性との総合を問題にしているように見える。だが実は、この第三批判が丁度第一批判と第二批判との中間に位する問題[#「位する問題」に傍点]を取り扱っているというまでで、この問題自身が両者の総合や結合を意味するというわけではない。この意味からいうと、カントの批判哲学の「体系」は彼自身の手によっては与えられていなかったと云わねばならぬ(カント哲学の体系づけを試みた良書としては田辺元『カントの目的論』がある)。
 こうしてカントの倫理学は、認識理論や芸術理論から殆んど全く独立な領域として現われる。その結果は而も社会・国家・政治・法律からさえ、独立した一つの封鎖領域なのである。――処でこの関係は二つの結果を必然にする。一つは倫理学の形式化[#「形式化」に傍点]であり、一つは倫理学の固有問題[#「固有問題」に傍点]の設定である。と云うのは、倫理学の内に実質的内容を入れて考えるとすれば、他領域との関係が這入って来なくてはならなくなるし、倫理学だけに固有で他の学問では取り扱えないような問題がいくつか見出されなければ、倫理学という特別な専門領域は無用になるだろうからだ。
 カントの倫理学に於ける形式主義は有名であるが、之はブルジョア倫理学にとって決してただの偶然ではない。ブルジョア倫理学が倫理学という固有領域を確保するためには絶対に夫が必要だったのだ。まず経験的因果の連鎖を取り除き、次に人間的欲望の性向(傾向)を取り除き、それから道徳律=根本命題の特殊な中味を取り除く。かくて倫理学は極めて貧弱なものとなるように見えるのだが、実は却って之によって、倫理学という特殊領域が、いつでもどこにでも口を容れることが出来るような特権を獲得するのである。場所・歴史的時代・社会階級などとは全く無関係に、この倫理理論は通用出来るわけだし、又如何なる社会現象の根柢としても、この形式的な倫理学は、形式的であるが故に必ず想定されて構わぬものとなる。社会が倫理的[#「倫理的」に傍点]に見られるためには、即ち、社会が観念論的[#「観念論的」に傍点]に特徴づけられるためには、倫理学は形式主義を取らねばならぬわけだ。であるからK・カウツキーが近代のブルジョア哲学にぞくする倫理学の中から、特にカントを長々と取り出して、専らその形式的普遍主義を指摘したのは、当っているだろう(カウツキー『倫理学と唯物史観』はマルクス主義=唯物論的文献に於ける唯一のやや系統的な道徳論だ)。
 併しいつでもどこにでも口を容れることが出来るためには、倫理学は自分でなければ取り扱えない諸問題、而も一切の他領域に於て根本的な役割を有つだろう諸問題、を有っていなくてはならぬ。この問題を掘り下げた者が、カントであった。自律・自由・人格・性格[#「自律・自由・人格・性格」の「・」を除く部分に傍点]などの根本概念が之だ。意志の自由の問題はすでにストイック学派にも見られるが、最も深刻な意義のものはアウグスティヌスの神学的観念による夫であった。カントは之を人間理性の自律の内に発見したのである。この自律による自由の主体が人格であり、人格の特色をなすものが性格だ。道徳乃至倫理とは要するに、この人格を以て、手段ではなくてそれ自身目的であるように、行動することに他ならぬ。人格は経験的には何であろうと倫理的にはそういう目的[#「目的」に傍点]であるというのだ(カントは経験的性格と英知的性格とを対立させる)。
 かくて倫理学とは、自由[#「自由」に傍点]や人格[#「人格」に傍点]やを、そしてこの根本概念に基いて道徳律や善悪の標準やを、研究する処の、一つの独立な封鎖された学問のこととなる。道徳律や善悪標準の問題はブルジョア通俗常識の問題でしかない、だが之を倫理学という専門的な学問は、自由や人格という範疇の検討を以て、裏づけるというのだ。――処がその裏づけの結果は倫理学に一種のブルジョア的光栄を齎すものだ。なぜなら、一切の人間関係・社会関係は、之によって、人格[#「人格」に傍点]の結合や「目的の王国」や理想[#「理想」に傍点]の体系界というような根本的意義を与えられることになるので、つまりこのブルジョア観念論的倫理学は、一切の社会理論の根柢をなすものだということになるのである。観念論は一般にだから、この倫理学を利用さえすれば仕事は極めて簡単となる。
 自由や理想や人格は、今日の道徳常識では寧ろ平凡な観念になっていると云っていいだろう(自由に就いてはヴィンデルバント『意志の自由』――戸坂訳が参考になろう)。世間の人達が唯物論に反対するために考えつく根拠も、唯物論が之等の問題を(この正に倫理学的な道徳の問題を)、解こうとしないという論拠である。この批難に意味のないことは、いずれ明らかになることだが、併しこの種の倫理学的範疇にもう一つ「我」というカテゴリーをつけ加えたフィヒテのことを忘れてはならぬ。フィヒテはその純粋我[#「純粋我」に傍点]なるものの存在の仕方を論じることによって、行・実践[#「行・実践」の「・」を除く部分に傍点]なる倫理学的規定を強調するに至った。之は「我」という倫理的主体にとって必然な倫理学的規定だ。処が之は恰も極めて倫理学的な規定であることを見落してはならぬ。なぜというに、ここで行なう行とか実践とかは、何等人間的活動としての産業や政治活動を意味するのではなくて、単に自覚的に考えたり身体を動かしたりするということにすぎないからだ。何でも自覚的にやりさえすれば夫が実践だというわけだ。――だがそれにも拘らず「我」(之は必ずしも社会に対する個人[#「個人」に傍点]というだけのものではないが)は、人格という観念と共にブルジョア・イデオロギーを代表する処の有力な合言葉である。道徳の問題を我[#「我」に傍点]へまで持って行くことはそれ自身意味のあることだ。併しこのフィヒテの我たるものが、極度に独立した独身の自発性を有ったもので、一切の世界がこの自我からの発展だというのである。我はフィヒテにとっては、ドイツ哲学的主観的観念論のパンドーラの箱に他ならない。而もこの我がフィヒテの倫理学の枢軸だったのだった。
 フィヒテの哲学及び倫理説が、カント哲学の体系的発展(実践理性によって理論理性を統一しようという)であったことは、云うまでもない。フィヒテに次ぐドイツ観念論者はシェリングであるが、晩年のシェリングはヘーゲルとの論争に沿って、自由意志論の展開を試みた。だが夫は極めて宗教的哲学思索であって、もはや道徳に関する倫理学的な常識観念の他へ出て了っている。――でつまり近代ブルジョア倫理学の内、道徳に関する倫理学的問題・倫理学的根本概念、を最も積極的に展開するものは、カント(乃至フィヒテ)であったということになる。現代の群小諸倫理学は、多少ともこの影響に立たないものはない(T・リップス其の他)。
 だが最後に、ごく近代的な倫理学の一傾向として、生命[#「生命」に傍点]の倫理学を数えておかねばならぬ。その一つはダーヴィン主義的倫理学であり(カウツキー前掲書参照)、その二つは例えばギュイヨーの夫だ(「義務も制裁もなき道徳の考察」其の他)。形式主義的倫理学に了る道徳観念の代りに、生命内容による闘争や生活意識の高揚やを導き入れたことがその特色であるが(特にギュイヨーの如きは道徳を道徳律中心主義的な又善悪対立主義的な観念から解放した)、道徳の歴史的発展[#「歴史的発展」に傍点]に就いての積極的な体系は全く之を欠いている。之は、この種の「生」の倫理学が依然として形式主義的倫理学と共に分つ宿命なのである。之はだから実は本当に内容的な[#「内容的な」に傍点]倫理学ではあり得ないわけだ。この点現象学的[#「現象学的」に傍点]倫理学其の他のもの(M・シェーラーの如き)になれば、もっと明らかだろう。
 極めて最近では、倫理学を人間学乃至「人間の学」と見做すことも行なわれるが(例えば和辻哲郎博士)、こうした人間学[#「人間学」に傍点]は要するに社会を倫理[#「倫理」に傍点]に解消する代りに、之を人間[#「人間」に傍点]に解消するためのもの
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