ヌスのものであった。彼によれば神の存在の証明は宇宙論的にも心理的にも出来ると云うのであるが、神の道徳的証明が何より今興味がある。人間が善をなすように仕向けるものは、社会其の他による外部的強制ではない。それはただ善き意志[#「善き意志」に傍点]だけがなし得る処だ。これは神の意志である他ない、と云うのである。人間はこの神に仕え、神はその善き目的の下に人間をあらしめる。神は人間に恩寵を垂れ給う。そしてこの恩寵の内にこそ人間の道徳が横たわるのである。――人間は意志の自由[#「意志の自由」に傍点]を持っている、これこそ神が人間にだけ与え給う恩寵だ、従って之は実は人間のものではなくて神にぞくする。その意味では吾々は道徳的に決定論・宿命論のものだ、意志の自由[#「意志の自由」に傍点]は本当ではない。だが事実、神が与えた意志自由によって人間は現に悪をなすことが出来る。処がこの悪も亦恩寵の一つなのだ。悪は世界の全体の善に寄与するためにあらざるを得ないものだ、と云うのである。馬は石に躓いても、躓くことの出来ない石よりも、よく歩くものであり、人間は自由意志によって罪を犯しても、自由意志がなくて罪を犯すことさえ出来ない他の動物よりも、立派なのだ、と云う。
 アウグスティヌスによれば、道徳は幸福[#「幸福」に傍点]と永生[#「永生」に傍点]との内に存する。ギリシア哲学者はエピクロス学派もストイック学派も幸福を地上のものに限って考えたので、之を永生へ結びつける術を知らなかった。処が真の完全な幸福は、神を楽しむことでなければならぬ、と云うのである。――でここに、道徳に就いての倫理学的観念に就いて、神の世界がその根柢を与えることとなったわけだ。道徳的な善悪は、イデアの問題でもなければ現世的な生活術の問題でもなくて、天国と地上との対立のことでしかなくなった。之はヘブライ的思想から来た全く新しい観念論的観点なのである(ヘブライ思想をギリシア思想に結びつけたものがこのアウグスティヌスで、之に先立って、ギリシア思想を東方思想に結びつけたのがプロティノスであった)。
 だが夫と同時に、エピクロス学派やストイック学派には見られなかったような、一つの視野が開かれて来たことを見落してはならぬ。と云うのは、アウグスティヌスの「神の国」はカエサルの国の対蹠物に他ならなかったので、当然この現実の社会[#「社会」に傍点]が、倫理上の問題とならぬば[#「ならぬば」は「ならねば」の誤記と思われる]ならぬからだ。彼によると、個人が神の僕であると同じに、社会は神に仕えるためのものであって、全く道徳的本質のものだ。山賊ででもない限り、人間はこの社会の正義たる国法を遵らねばならぬ、と云うことになる。特にキリスト教国に於ては、社会の倫理的行為たる教育は、神の認識を教えることだけで充分であって、ギリシア人的な自然研究などは無用有害だと云うのである(尤も言語・弁証術・修辞学・数理論は必要だとする――事実アウグスティヌスは優れた文化人であったことを忘れてはならぬのだ)。――かくてアウグスティヌスの神に基く神聖倫理は、つまり世俗のカエサルの帝国に於ける常識的な階級道徳そのものと、少しも実質を異にするものではない。倫理学に於ける神学的観念論[#「神学的観念論」に傍点]はここに始まる。
 アウグスティヌスによって道徳の観念は宗教倫理的なものとなった。ここに含まれる特有な道徳問題は、単に善(或いは悪)や幸福(乃至浄福)の問題ではなくて、恩寵であり永生であり、そしてもっと大事なのは、之に直接関係のある悪[#「悪」に傍点](根本悪)と自由意志[#「自由意志」に傍点]との問題なのである。之はギリシア倫理学では殆んど全く存在しなかったものであると共に、之なくしては近代ブルジョア倫理学を考えることの出来ないような、根本問題なのだ。こうした根本問題がアウグスティヌス(広くキリスト教倫理学)から発生したのである。

 さて私は以上、古代(乃至中世)に於ける道徳理論乃至倫理説・倫理学の三つの典型と、夫々に含まれた課題とを述べた。そしてこの三つのものが、夫々の形に於て、如何に観念論と不可分な関係に立っていたかを見た。――之を頭においた上で、近代ブルジョア倫理学の課題と特色とを見よう。
 古代に於ける倫理思想がそうだったように、近代に於ける倫理思想の自覚も亦、一般思想の激しい動揺、即ち社会機構の著しい変革によって促された。すでに述べたように、道徳は社会秩序の分泌物のようなもので、従ってその反映である道徳意識乃至倫理観念は、社会秩序の上部構造的な表現に他ならないが、社会秩序が比較的安定を得ている場合には、その道徳乃至道徳意識は、自分の内に何等の抵抗も矛盾も感じないので、倫理思想は殊更自覚される縁もなければその必要もない。倫理が問題として自覚され、倫理学などが発生するのは、一般に社会変動と夫に基く思想的動揺とに照応してのことなのだ。近代ブルジョア倫理学の発生も亦そうなのである。
 前にも云ったが、近代倫理学はイギリスのブルジョア倫理学として発生し又発展した。その直接の源をなすものはトーマス・ホッブズであった。ホッブズに先立つエリザベス時代は、イングランドがヨーロッパ[#「ヨーロッパ」は底本では「ヨーロョパ」と誤記]に於ける制海権を握り植民地貿易企業には莫大の利潤をあげ得た、商業資本主義の大規模な発達時代であった。当時の海外貿易会社は一〇〇割の配当をなし得たとさえ云われている。尤もこの点ルイ十四世治下のフランスでも大した差はなかったのだが、併しイングランドに於ける特色ある一事情は、新興ブルジョアジーの早い発達が容易に地主貴族の利害と結合出来たという点に存する。だから反封建的なノミナリズム的な経験論的機械論(之が近世ブルジョアジーの本来の世界観であった)が、絶対君主主義などと理論的に結合することも強ち不可能ではなかったので、恰もホッブズの倫理思想は、そうした場合に相当するものに他ならなかったわけだ。
 ホッブズの倫理説は、人間性[#「人間性」に傍点]の検討から始まる。と云うのは、人間の情念(Passion)の分析から始まる。人間の情念は精神の機械的運動に他ならないが、一般的な情念としては愛好・欲求(索引運動に相当する)と苦痛・憎悪・恐怖(反発運動に相当する)とが対立している。その根柢を貫くものは権力と名誉との欲望だ。それ故人間は元来一人々々夫々皆第一人者となろうとして競争と闘争とをなしつつあらざるを得ない。所謂「万人が万人に対する闘い」である。各個人はその自然状態に於ては、キリスト教的伝統観念とは反対に、自己保存と自己増殖との欲望によって動かされる野獣か狼に他ならない。こうして各個人は無限の権力を欲するものなのだ。その際、善[#「善」に傍点]とは銘々が自分に気に入った都合のよいこと以外のものでなく、夫が各個人にとっての正義[#「正義」に傍点](法)というものに他ならぬ。第一の善は自己保存であり、第一の悪は死ぬことだ、とホッブズは主張するのである(読者はここに、道徳の問題が人間性の問題から善悪の標尺の問題へ移行するのを見るだろう)。
 処がこの自由状態に於ける各人は、お互の反目猜疑抗争が、銘々の生存に取って実は危険極まりないものであることを発見する。人間に理性乃至悟性がある限りこの発見は容易だ。そこで人間は平和を欲求するようになる。かくて今度は、善とは人間社会の平和にとって必要な凡ての手段の名であり、悪とは之を妨げるものの名だ、ということになる。では人間社会のこの平和を保証するものは何か。夫が法であり国法である。従って更に又、善とは国法に従うこと以外の何物でもなく、悪とは国法に従わないこと以外の何物でもない、という結論になる。道徳の善悪価値標尺の問題は、こうして社会国家に於ける法不法[#「法不法」に傍点]の尺度の問題に帰着する。
 ここにホッブズの有名な社会契約説が彼の倫理学に対して有つ根本関係が横たわる。社会は自由状態に於ける各個人が、その快不快の実際を理性的に反省した結果、平和機構の契約を交した処に成立するというのである。――処がこの社会なるものは、ホッブズによると実は専制君主国のことでしかない。つまり一人の支配者を選択して、他の人員は臣下として之に殆んど絶対的に服従するという契約が、初めて社会を成り立たせるのだ。君主はかくて一種の天賦の自然権を有つものとなる(尤も君主が君主に相応わしくない時は臣下は之を捕縛したり追放したり監禁したりしてもよいとも云っているのだが)。――このホッブズのアブソリュティズムは、チュードル王朝特に又スチュアート王朝のデスポティズムを倫理的に合理化したものであることは、疑いを容れない。当時個人[#「個人」に傍点]の形で現われたブルジョアジーの勢力は却って、国家[#「国家」に傍点]の形で発現したこのデスポティズムの積極的発動を促した。ハンプテンなる人物は船舶税の納入を拒否した。そしてチャールズ一世は議会を半永久的に解散して了った。――こうしたわけでホッブズ倫理学は、イギリス・ブルジョアジーの発展初期に於けるこの云わば変則な必然性を表現した処の、やや変則な[#「やや変則な」に傍点]ブルジョア倫理学に他ならなかったのである。やや変則なとは次の意味だ。
 一般にホッブズの哲学が機械論的唯物論の代表であったことは、今更説明を必要としない。その倫理学も全くこの唯物論の可能的な帰結の一つに過ぎない。だがこの唯物論がやがてジョン・ロック等の手によって、経験論にまで精練されることによって、イギリスの爾後の倫理学は名目上でも完全な観念論の典型となるようになった。特に経験論の一つの形である処の、道徳感情や道徳感覚や常識哲学の常識を依り処とする各種のイギリス道徳科学・道徳哲学・倫理学はそうだ(シャフツベリ伯爵・トーマス・リード其の他)。機械的唯物論が倫理学に於て再び口を利き始めたのはフランス唯物論者に於てであった(エルヴェシウスやホルバッハ伯爵)。――ホッブズの唯物論的倫理学が(ブルジョア)倫理学であるべきであった限り、それは歴史的に不幸に終らざるを得なかった。なぜなら其の後のブルジョアジーは、倫理学の内に他ならぬ観念論の代表者と足場とを発見しようと欲したのだからである。
 だがそれにも拘らず、ホッブズ倫理学の人間性論[#「人間性論」に傍点]が、長くイギリス倫理学の根本課題として残されたことは、重大である。先に云った一連の道徳感情論的倫理学は正にここから出発したのであったし、イギリスの政治学や経済学も亦これなしには発育しなかった(ロック・ヒューム・スミス・等を見よ)。そして人間性の善悪[#「善悪」に傍点]の問題(ホッブズに於ては人間性悪説だった)は、道徳の問題を善悪の価値対立問題として、その後の倫理学を支配した(ベンサムの功利主義に立つ最大多数の最大幸福説――之はベッカリーアの思想から糸を引いていると云われる――を見よ)。そして最後に、ホッブズが善悪の対立を法不法の対立に還元することによって、道徳を少なくとも何よりも道徳律[#「道徳律」に傍点]として理解せねばならなかったことを注目しなければならぬ。之も亦その後のブルジョア倫理学に於ける常識的道徳観念の一つの形態をなすものである(之はカントによって探究された形態の「道徳論」だ)。
 だが、道徳がその本質を社会[#「社会」に傍点]の内に持っているということは、ホッブズの倫理説によって初めて真向から取上げられた処の、忘るべからざる特色なのである。この特色は事実上唯物論(機械論)的倫理学と必然的な関係があるものであって、後にエルヴェシウスなどは十八世紀に於けるその代表者でなければならぬ。尤も機械的唯物論は道徳の歴史的[#「歴史的」に傍点]発達を理解し得ないのを常とする。従って之によっては道徳の社会的本質は、本当の処を理解し得ないのが当然だ。之は機械論的唯物論的倫理学の最大の根本的欠陥であると共に、同時に又、ブルジョア観念論的倫理学にとって略々共通の(ヘーゲルは除く)根本的
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