傍点]はそこで、この真の常識[#「真の常識」に傍点]と、略々一致する内容のものだと推定するのは、そんなに無理なことではあるまい。私は尤も、まだ真の道徳なるものに就いて積極的には何も説かなかった。だが、もし仮りに今、本当の意味に於ける道徳による道徳意識を、人間の社会生活意識だと見做していいとしたら、道徳が常識だ、という云い方は、この場合にも無理ではあるまい。世間では道徳意識を良心とか法への服従とか習俗の尊重とか考えるが、之は人間の社会生活意識の夫々の内容でなくて何であるか。――俗間の所謂常識による道徳の観念が所謂常識なる観念と相蔽うということをすでに見た。真の道徳と真の常識とも亦、その内容が略々同一のものだと云うのである。

 吾々が現下に於て道徳に就いて物を考えねばならぬという根拠は、云うまでもなく既成のブルジョア的乃至半封建的な道徳の批判克服を通じて、自由な新しい生活の道徳を探究建設せねばならぬ事情に置かれている、ということの内に存する。之は社会機構の必然的な変動の一部分であり、又その結果であるべきであり又夫を予想しての準備でもあるのだ。道徳の変革によって併しながら、社会そのものの原則的な変化を期待することは事実不可能だ。それは吾々が道徳に就いて懐いている観念そのものから云って、避けることの出来ない一結論だろう。だがそうだからと云って道徳問題の解決への道を想定せずには、一切の社会理論も文化理論も現実的ではあり得ない、ということも見落されてはならない。
 社会理論が現実的となり大衆的となればなる程、道徳問題の意義がハッキリして来るだろう。つまり道徳という大衆の生活意識の総括的な要約点が解明されなければ、大衆の社会意識は納得が行かないからなのだ。社会の客観的現実は、多かれ少なかれ社会大衆の生活意識の内へ、道徳意識として反映されるものだという、道徳意識なるものの根本的な役割をここに見ねばならぬ。道徳は出来合のあれこれの事物のことではなくて、社会秩序が刻々に発散する汗か脂のようなものだ。社会人の意識は之を吸収して生活意識のさし当りの内容とする。――新しい道徳を伴わない如何なる社会建設も文化建設もない。社会建設が現実に始まり、文化建設が現実的に企てられる処には、すでに道徳の建設がある。このことはソヴェート・ロシアに於ける性道徳の歴史を見ても判るし、フランス大革命直後に於ける労働婦人の革命的役割を見ても知られるだろう(コロンタイ『新婦人論』を見よ)。
 だが新しい道徳の建設又は建設の見透しは、同時に新道徳の観念[#「観念」に傍点]の建設と平行せねばならぬ。大いに、新しい道徳[#「新しい道徳」に傍点]に就いての観念を建設するだけではなく、道徳に就いての新しい観念[#「新しい観念」に傍点]を必要とするだろう。そしてこうした道徳の新観念を理論的に仕上げるためには、新しい物の考え方・方法の考察も亦必要となるだろう。私がこの本で企てる処は、どういう風に考えれば、道徳に就いての最も科学的な観念を得るかということだ。この観念によって、新しい道徳の建設という課題も、初めて充分に目的意識的に、而も包括的な観点から見たその含蓄に於て、解けるようになるのではないか、と思っている。
 この手短かな本で以て、私が新しい道徳そのものを説き立てるというようなことは、元来出来ない相談でもあるし、少し滑稽なことでもあろうと考える。私の問題はもっと手近かにある。現下の既成乃至待望道徳に対する吾々の不信を系統化することだ。そしてそれが道徳なるものの新観念[#「新観念」に傍点](尤も本当は新しくも何ともない当然な観念の再認識だと思うが)の検討ということになるのである。――私はそのために邪魔になるような通俗常識的な道徳観念[#「通俗常識的な道徳観念」に傍点]をまず整理したのである。
[#改頁]

 第二章 道徳に関する倫理学的観念

 道徳に関する理論乃至科学が、普通、倫理学[#「倫理学」に傍点]というものだと考えられている。なる程倫理学(Ethics)を言葉通りに取るなら、一切の道徳問題は倫理学の対象であると云っていい。なぜならこの言葉は性格(ethos[#「e」はマクロン付き(−)E小文字])と習慣(ethos)とから来たものであって、社会生活を営む人間の比較的外部的な生活規定である処の習慣風俗の問題と、その比較的内部的な生活規定である性格性情の問題とは、吾々の道徳問題の一切を含むと考えられるだろうからだ。
 そういう意味で、吾々は広く倫理思想というもので以て、道徳に関する意識を云い表わすことも出来ないではない。だがその場合、そこに含まれるものは所謂「倫理学」ばかりではないので、政治学・法律学・社会理論・人性論(人間学)・制度理論・実践哲学、等々も亦ここに含まれていなくてはならぬだろう。だから之を以てすぐ様、倫理学的思想とすることは出来ないわけだ。――元来今日云う処の所謂倫理学(近代倫理学)は、主にイングランドを中心として発生し又隆興したものであって、イギリスの倫理学・道徳科学・道徳哲学、等々がその最初の代表者なのだ。トーマス・ホッブズが人間社会に於ける善悪の区別を、社会支配の法的・法律的な合法性と非合法性との区別に解消しようとして以来、そして之は彼一流の人間論(マキャヴェリの系統を引く処の人間狼説)に立脚するのであるが、それ以来、イギリスの哲学に於ては、人性論に立脚して、専ら道徳理論が盛大に展開された。而も之がイギリスの哲学全体を可なりに永く支配した。で近代倫理学の存在権は、歴史的にはここで確立されたものと見てよい(H.Sidgwick,Outlines of the History of Ethics参照)。
 尤もホッブズの思想は必ずしも所謂「倫理学」ではない。又イギリスの道徳理論家(即ちイギリスの多くの哲学者だが)が皆、その道徳理論を「倫理学」と呼んだわけでもない。だが哲学史に於ける彼等の業績は、倫理学という或る独立独自な学問[#「独立独自な学問」に傍点]を世間に向かって承認させるには充分であった。尤も極めて日常常識的なイギリスの哲学者自身は、倫理学なるものの学問としての独立性や限界や対象の規定方などに就いて、あまりアカデミックな興味は有っていなかった。彼等にあっては倫理学はもっと遙かに活きた実際的な意味を持っていたからだ。倫理学という観念を却ってイギリスの倫理学者達に向かって教えたものは寧ろ、講壇哲学的学校訓練を持っていた後のドイツの哲学者であって、特にカントの批評的道徳哲学はここに与って力があった。T・H・グリーンの『倫理学序説』は、ドイツ哲学によって講壇化された処のイギリス倫理学、の代表だと云ってもいいだろうと思う。だがグリーンの倫理学と雖も、政治上に於ける自由主義運動と深い実際関係を有っていたことは、注目すべきだが。
 こうして歴史的権威を認められた所謂「倫理学」は、今日では往々、それの科学論的な省察――方法論の如きもの――から始められねばならぬと考えられている。ドイツの哲学教授の手によると、倫理学の問題は道徳という広範な現象の問題であるよりも先に、倫理なるものに就いての学問や科学や哲学自身に関する問題であるように見える。例えばN・ハルトマンによれば、人間の生活は認識と行為と希望との三つの段階を持っていると云う。認識は現実界を、希望は幻想界を対象とする、そして行為は両者の中間にあって現実を幻想に媒介する役目を果すものだという。云うまでもなくこの行為を論じるものが倫理学だというのであって、その第一の根本問題は何を為すべきかであり、その第二の根本問題は何が生活の価値であるかだ、云々というのである。
 理論は精密で根柢的で統一的であらしめるための科学論乃至科学方法論は、従来極めて非歴史的な観点によって導かれるのを常とした。と云うのは、諸科学は夫々の発生発達の歴史的条件を顧ることなしに、単純に合理的に、排列され秩序づけられるのを常とした。この点ここでも亦例外ではない。倫理学はその歴史的な動機との関係などに拘らずに、単に人間生活の三段階の一つを対象とするなどという風に、一般的に[#「一般的に」に傍点]決定されて了っているわけだ。この人間生活[#「人間生活」に傍点]という観念自身が持っているドイツ観念論的な抽象性と皮相味とは今論外としても、倫理学なるものがイギリスのブルジョアジー(及び資本制下に於ける貴族地主達)の哲学として発達したという歴史を抜きにすることは、倫理学論として見逃すことの出来ない欠陥でなければならぬ。今日の所謂「倫理学」、即ちそういう一種の独立な又は支配的な又大切な哲学か精神科学、の根柢には、初め近世イギリス・ブルジョアジーによって代表された生活意識からの伝統が反映されているのである。之が近代倫理学[#「近代倫理学」に傍点]の根本特色なのだ。
 そして而もこの歴史的な階級的な規定を特に無視することによって、自分を何か普遍的に通用するものであるように見せようということが又、近代倫理学なるものの根本特色でもあるのである。――所謂倫理学は、単にそれがブルジョア観念論哲学一般の理論的に最も重要な一環であるからばかりではなく、それに特有な歴史的起源から云っても亦、ブルジョア的道徳理論の他のものではなかったのである。で吾々は、道徳理論一般をすぐ様、倫理学と呼ぶことを躊躇せざるを得ない。吾々は道徳に関して、特に「倫理学的」な観念を他の道徳観念から区別して指摘する必要があるのだ。
 処が通俗常識に従えば、道徳理論は問題なしにすぐ様倫理学と呼ばれるに値いするように想像されている。この点は注目を必要とする処である。単に今日の通俗常識が、独り倫理学に限らず、一般に哲学・文化理論・其の他の階級性一般を承認せず、ましてそのブルジョアジー的階級性を認識しようとしないからばかりではなく、事実又、今日の通俗常識が道徳と考える処のものは、比較的忠実に倫理学から理論的奉仕を受けているからなのである。道徳という独自の絶対的領域の承認、善悪標準の樹立の無条件な強調、絶対不変な道徳徳目や道徳律への熱中、道徳価値に関する超合理主義的な神聖視、道徳に関する超歴史的・超階級的・特権の強調、等々他ならぬこの倫理学(ブルジョア道徳理論)自身が想定する処のものだったのである。
 その意味に於て倫理学は、その煩瑣な分析にも拘らず、要するに常識的な道徳観念の多少理論的な釈明に過ぎないのであって、決して道徳現象の科学的説明を企て得るものではない。道徳なるものはすでに常識によって与えられている、倫理学は単に之を明快にして秩序立てさえしたならばよい、というのが、道徳に関する倫理学[#「倫理学」に傍点]的観念の役割なのだ。だから、倫理学的道徳観念は、根本に於ては、常識的な道徳観念を批判克服しようとするものではあり得ない。まして新しい道徳観念の創造、そして又新しい道徳の創造、などについては殆んど全く無力なのだ。之は寧ろ初めから当然だと云わねばならぬ。なぜと云うに、今日の通俗常識はつまりはブルジョア社会に於て支配的な常識でしかないので、このブルジョア的の観念にぞくする常識的道徳観念が、同じくブルジョア社会の観念に立脚する所謂倫理学によって、批判され克服されるというようなことは根本的には、到底あり得ないことだからだ。

 だが今日の(ブルジョア)倫理学と雖も、決して近世になって初めてその準備を始めたのでないことは、云うまでもない。倫理的思想は古来、殆んど有史以来、凡ゆる民族に於て見出されるもので、倫理思想の一貫した発達を古代から今日に至るまで辿ることは、極めて容易なことと云わねばならぬ。少なくとも古代支那、古代印度(特に原始仏教)、ユダヤ乃至古代ローマ(原始キリスト教)、及びギリシアは、倫理思想の古代に於ける四つの大きな淵源であった。倫理なるものが、すでに述べたように社会の習慣と人間の性格とを意味したとすれば、つまり倫理思想というのは、人間の社会生活の意識的反映のことなのであって、これの割合直接な直覚的なそ
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