のないものと見立てるという例の形而上学的な態度より以上のものを、含んでいる。その点を今注目しなければならない。単に自然物や或る種の社会関係が不変であるという思想は、云わばまだその不変物の真の意味での絶対性[#「絶対性」に傍点]を、即ち絶対的権威や圧力を、主張することではない。例えばキュヴィエがジョフロア・サン・ティレールに反対して夫々の生物の種の不変性を主張した時、彼は必ずしもこの種を絶対的な権威ある存在と考えたということにはならぬ。処が例えばこの夫々の種が神の造り与え給うたものであるが故にとか、イヴの腹に初めから仕込まれてあった限られた一定の数のものであるが故にとかいう理由で、種の不変性を主張するならば、その時この種は何等か絶対的な権威[#「権威」に傍点]をもったもの、真に絶対的なもの、となる。之を実証的に覆した進化論も、この絶対的権威を覆したと考えられる限りに於て、初めて批難[#「批難」に傍点]や賞讃[#「賞讃」に傍点]の対象となるのだ。――つまり道徳の問題となる時初めて、不変者は真の意味での絶対者となる。神聖にして不可侵なもの、批評を加えるべからざるもの、となるのだ。
 だから道徳の不変性という観念は、単なる不変性の観念ではなくて、神聖な絶対者、批判すべからざる不可侵物、という観念なのである。事物の不変性は価値評価の世界では事物の神聖味[#「神聖味」に傍点]となって現われる。道徳はそれ自身価値ではなく、却って道徳的価値対立(普通之を善悪と呼んでいる)を強調によって成り立たせる或る領域か或いは領域以上のものであることを述べたが、にも拘らず之は道徳が要するに価値的なものであることを云い表わしているのであった。この価値[#「価値」に傍点]の世界に横たわる処の道徳の不変性を主張するということが、その神聖な絶対性を主張するということになるのは、当然なことだ。
 今は一般に価値というものの理論的分析を企てる機会ではないが、或る学者達の所説によると、一切の価値が、真理価値も美的価値も、それが価値であるという資格を得るためには、或る意味での道徳的価値に帰するというのだが、仮にこの所説を利用するとすれば、真理の評価や芸術的判断に於ても、道徳的評価と同じく、その絶対性と神聖味とが強調される所以は、見易い理屈でなければなるまい。絶対真理(相対的真理に対す)も事実上、一定真理の神聖不可侵、不可批判性、を意味している。認識論上の絶対真理の主張(機械論的・形而上学的・形式論理的・認識論のもの)は、つまり法皇やツァールの真理の権威を擁護することに他ならないわけだ。――処でこれは皆、外観では道徳の例の不変性の主張に帰するのである。
 常識によって想定される道徳の不変性とは、常識の立場にとっては、凡そ道徳なるものは神聖にして侵すべからざるもので、断じて批判の対象になってはならぬ、という想定なのである。常識にとっては道徳そのものを批評批判することは、云わば第一に言葉の上でさえ矛盾したことなのだ。吾々は不道徳をこそ批判すべきであって、道徳そのものを批判することは、原則的に不可能だと考え得べきだろう。と云うのは批評批判する場合の尺度そのものが、他ならぬこの道徳なのであるから、布地で物指を測ることが無意味なように、道徳を批判することは意味がないのだ、とも考えられる。
 なる程事物を価値評価するものがこの道徳である以上、道徳自身を以て道徳を批判するとでも考えない限り、道徳の批判は不可能な筈だ。処でこの神聖な道徳を神聖な道徳自身で批判することは、神聖不可侵な王様が自分を束縛する法律を発布するようなもので、不可能なことか八百長か、のどっちかだ。――でこういうわけで、常識が道徳を不変なものと考えたがることには、表面的に考えて気付かないような深刻な内容があるのである。
 だが云うまでもなく道徳は不変ではない。それは歴史の教える処だし、現今の未開人の道徳と吾々やヨーロッパ人の道徳とを較べて見れば判ることだ。そして更に、今日の道徳は何と云っても徹底的に批判されねばならぬ理由が存する。なぜなら今日の既成道徳――ブルジョア的及び半封建的道徳――の殆んど凡ては、吾々勤労者の階級から見れば明白に吾々人間の解放の妨害者以外の何ものでもないからなのである。併しでは、この道徳は如何にして何に基いて、批判され得るのか。既成道徳そのものがこの道徳を批判し得ないことはすでに述べた。では新しい何等かの道徳によってであるか。だが新しい道徳はどこにあるか、或いはどうやって探しどうやって建設されるのか。仮に自然と新しい道徳が生じて来たにしても、どういう権利根拠で之が既成道徳を克服出来るのか。お互いに相手の道徳が不道徳だ、悪い、と云い合うにすぎないではないか。それは子供の喧嘩か日本の政治家の演説のようなもので、なぜ悪いかを筋道を立てて説明することが出来ないではないか。
 さてここまで来て明らかになる一つの関係を注意しなければならない。実際、道徳位い批判するに容易でないものはないのである。水準の低い人間は最も容易に一切のものを道徳による批判[#「道徳による批判」に傍点]に還元して了う。戦争することは善いことか悪いことか、神社に参拝することは善いことか悪いことか、小学校の児童はすぐ社会問題をこういう道徳問題に還元する。修身教育がそういう子供の態度を養成するのである。だがこの最後の判断の転嫁の地である道徳そのものは、一向判断の対象になり得ない。――それは他でもないのだ。ここで云う道徳なる常識物は、何よりも科学でない[#「科学でない」に傍点]という規定を有っているのである。理論的な分析を放擲するということが、子供が一切の問題を善いか悪いかに還元する所以なのであり、そして夫が同時に、この「善い悪い」自身が常識によって問題にされ得ない所以なのだ。「善い悪い」は善いか悪いかを問う限り、もう問題は残っていないのが当然だ。常識による道徳[#「道徳」に傍点](夫はその建前から云って不変で絶対で神聖不可侵なものだ)とは、科学の反対物[#「科学の反対物」に傍点]を意味するための言葉だ。
 そこでこの道徳の批判、道徳のこの常識的観念の批判、つまり道徳の不変性乃至絶対神聖性の打倒、の唯一の武器、唯一の立脚点、唯一の尺度は、科学[#「科学」に傍点]でなくてはならぬ、という結論になるのである。俗間常識による道徳なるものは、単にそれが必要であるとか有用であるとか、又吾々人間社会の習慣や伝統であるとかいう、事実の認識だけでは不充分なのであって、そうした科学的な説明を含んだ一個の事実である以上に、特別な意味での価値を持っていなければならず、その価値のおかげでこの科学的な規定が殆んど完全に蔽い尽されて全く別な相貌を呈していなければ承知しない。科学からは全く異った別なこの相貌が道徳のもつ神秘性なのだ。で道徳は専ら神秘性[#「神秘性」に傍点]の主体として、社会人相互の間に受け渡され流通するものである。丁度紙弊[#「紙弊」は「紙幣」の誤記か]は、それが国営銀行で金貨に兌換されて初めて価値を受け取るのだということを全く忘れられた心理で、紙弊[#「紙弊」は「紙幣」の誤記か]という紙片として尊重されるように、道徳は事実としてのその合理的科学的な核心を忘れられて、専らその神秘的な外被として、尊重されるのである。常識で云う所謂道徳は、例えば人間の社会生活の規範(実は階級規範と云った方が理論的に正確なのだが)というだけのものではない。それが仮に永久不変な人間の規範であってもまだ所謂道徳ではない。それが絶対化され神聖化され、かくて完全に神秘性を与えられた時初めて、世間でいう所謂道徳(この常識的な道徳観念)となるのだ。――常識が道徳を好むのは、常識が科学を恐れるからである。科学の代りに徳を、これが現下に於ける一切のブルジョアジーの乃至ファッショの、デマゴギーの秘密だ。
 科学は、理論は、事物の探究を生命としている。之は科学自身の批判を通して行なわれる。この点常識にぞくする。処が道徳に関しては常識はそうは考えない。道徳は事物の探究[#「探究」に傍点]ではない、寧ろ事物を(勝手に常識的に)決める[#「決める」に傍点]武器だ。道徳自身を批判した処で、道徳なるものが探究でない限り、何の役にも立たぬ。そして道徳そのものを探究すること、之は道徳自身の仕事ではなくて、道徳学とか倫理学とかいう専門的学問の仕事だ、と常識は考えているのである。――だが以上は、道徳を絶対神聖物と考える常識から云って、完全に首尾一貫した観念の展開に他ならない。
 本当を云えば、道徳なる一定領域にだけ道徳の世界があるのでもなかったし、善悪という価値対立やまして善価値だけに道徳の本質があるのでもなかったし、道徳律だけが道徳でもなかった。まして価値の絶対神聖味とその神秘性とに、従ってその没科学性に、道徳の真髄があるのでもなかった。こうした考え方は要するに道徳を、夫々の意味に於て固定化して考える結果に過ぎなかった。道徳はそうした固定物ではない、そういうものでなくなるだろう、又そういうものであってはならぬ。道徳とはそれ自身一つの探究の態度か又は探究の目標を指すのだ。道徳は事物の探究だ(どういう仕方による探究かはズット後に述べよう)。と同時に、当然なことだが、道徳自身が常に探究されねばならぬ、道徳は常に批判され改造されねばならぬ。社会的矛盾が今日のブルジョア国家に於てのように根本的である場合には、道徳は根本的に批判され改革されねばならず、矛盾が比較的瑣末な場合には瑣末な点に於て批判改革されねばならぬ。そうしなければ道徳は道徳として成立せず、即ち事物の道徳的探究という道徳の存在理由が成り立たなくなる、一切の意味での道徳は成り立たなくなるのだ。――道徳は探究であり又探究されるべき処のものである。
 総じて常識によれば、一方に於て道徳は著しく愛好されているにも拘らず、他方に於ては著しく面倒臭さがられているのだ。と云うのは、道徳を他人にあて嵌める時には心が躍るが、之を自分にあて嵌める時には気が重くなるというのが、常識的俗物達の習性のように見える。だがいずれにしても彼等の常識は、道徳を何等かの単なる外部的強制[#「外部的強制」に傍点]だと想定しているのである。人が自分に之を加えようと自分が人に之を加えようと又自分が自分に加えようとだ。その意味で道徳とは常識的に云えばいつも既成物のことだ。だから常識的俗物は好んで道徳を口にするに拘らず(人の噂や評判又告白さえを見よ)、実は道徳を少しも尊重せず又愛してなどは無論いない。社会の支配的常識によると、実は道徳位い厄介なものはないのである。
 でこういうことになる。道徳はなる程常識と親密な関係を持っている。或る場合には、道徳的ということは常識的ということであり、常識的ということが道徳的ということでさえある。だが実は、道徳は常識とこそ一致すれ、実は人間生活[#「人間生活」に傍点]そのものに就いてはその常識的意識をさえ満足させないのだ。この道徳は社会人の生活意識を少しも満足させてはいない。だからこの道徳程人間の社会生活の正直な佯らない興味から疎隔したものはない。道学者や腐儒や法律の学者の類が、俗物から軽蔑される所以が之なのである。
 だが以上、常識々々と云ったが、之は専ら所謂常識と呼ばれる社会に於ける下級な平均価的な惰性的な知識のことであって、人間の社会生活を統一する処の生活意識の原則を意味する処のあの「常識」のことではなかった。卑しめられた意味での常識であって、「健全な常識」とか良識とかいう意味での夫ではなかった。この卑しい常識が自分の相手として、或いはその双生児として、常識的な所謂道徳[#「道徳」に傍点]の観念を選んだことは、だから初めから不思議なことではなかったのだ。
 処で私は先に、真の道徳なるものが、常識的な道徳観念では片づかない所以を見て来た。そして今や、その常識そのものに就いても、云わば常識的観念に帰するものと本当の常識との区別を見た。真の道徳[#「真の道徳」に
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