りれば、個人のアトミスティクである処の「市民社会」の物の考え方の特徴だ。わが倫理学(ブルジョア倫理学)も亦、その一例に過ぎぬ。尤も問題を本当に主観の圏内だけに限ったような倫理学は、実は寧ろないと云った方がよいかも知れぬ。もしそういうものがあったなら、夫は貧弱極まる倫理学としてあまりに露骨に見え透くからだ。併し如何に云わば客観的な倫理学でも、その原理=端初は、主観的なので、倫理学が観念論の論拠の不可欠な一環として利用されるのも、ここに関係があったわけだ。
 併し道徳が社会的強制であるという観念から、道徳の本来の価値感を惹き出すのには、主観的な方向の他に、もう一つの方向が可能である。夫は社会的強制によって強制された主観の強制感ではなしに、この強制自身の方が自分自身で何かの合理的意義を有つものだ、と考えようとする方向である。道徳は主観の心情に求められるのではなくて、社会的強制そのもののもつ神的又は理性的な意義根拠の方向に求められる。一般に社会に関する自然法[#「自然法」に傍点]的評価(この自然が本当の天然であろうと理性であろうと又神によって与えられた理性であろうと)が之であって、道徳は社会の
前へ 次へ
全153ページ中76ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング