うになった。特に経験論の一つの形である処の、道徳感情や道徳感覚や常識哲学の常識を依り処とする各種のイギリス道徳科学・道徳哲学・倫理学はそうだ(シャフツベリ伯爵・トーマス・リード其の他)。機械的唯物論が倫理学に於て再び口を利き始めたのはフランス唯物論者に於てであった(エルヴェシウスやホルバッハ伯爵)。――ホッブズの唯物論的倫理学が(ブルジョア)倫理学であるべきであった限り、それは歴史的に不幸に終らざるを得なかった。なぜなら其の後のブルジョアジーは、倫理学の内に他ならぬ観念論の代表者と足場とを発見しようと欲したのだからである。
 だがそれにも拘らず、ホッブズ倫理学の人間性論[#「人間性論」に傍点]が、長くイギリス倫理学の根本課題として残されたことは、重大である。先に云った一連の道徳感情論的倫理学は正にここから出発したのであったし、イギリスの政治学や経済学も亦これなしには発育しなかった(ロック・ヒューム・スミス・等を見よ)。そして人間性の善悪[#「善悪」に傍点]の問題(ホッブズに於ては人間性悪説だった)は、道徳の問題を善悪の価値対立問題として、その後の倫理学を支配した(ベンサムの功利主義に立
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