えられる。法律で禁じられていても道徳的には正しいと意識される場合も、今日のブルジョア的乃至半封建的法律では決して少なくないが、それは元来道徳そのものが二つに(階級的に)分裂しているからで、一方の側の道徳から見て善い行為も、他の側の道徳から見て悪いということになっていればこそ、法律上でも禁止されているわけだし、それにこの点をもっと便宜的に片づけるには、悪法も法である以上之に従うことが道徳的だという風に形式化して考えれば、咄は極めて簡単だ。とに角道徳界と法律界との限界は判然としているように見るのが、常識である。
 経済領域と道徳領域との区分も亦、常識的には一応判然としている。物質への興味と精神への興味とは相容れない裏表であると考えられている。カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ、と云うのである。史的唯物論は生産関係によって経済関係乃至社会関係を説明するのであるが、道徳も亦この生産関係から終局的に説明される。それはすでに云ったことだが、その場合にも依然として経済関係(乃至社会関係)と道徳との常識的限界を利用している。と同じに道徳と政治との限界さえが常識を利用して設定されている。尤もこの
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