、等々の卑俗な対立区分は、どれもこの常識的道徳観念から来るのである。――領域に就いて、道徳が独自な独立した一領域に他ならぬと考えたように、それと同じ調子でこの常識は、人間性に就いて、道徳が独自な独立な一属性だと仮定する。人間の肉体のどこかに、道徳の器管でもあるような風だ。
悪というものが反道徳であり、之に反して善が道徳的だということを、疑う人はいない。善とか悪とかいうことが何であるかは今殊更問題にしないとすればだ。そして善悪の価値対立が道徳現象だということを疑う人もいる筈はない。だがそういうことと、人間生活の諸事象を、之は善之は悪という風に篩い分けるということとは別だ。処が道徳を善悪の対立につきると思ったり、又善だけが道徳だと云いたがったり、又そこから人間に道徳的器管を想定したくなったりするのは、他の必要からではないので、正に之は善之は悪という風に、節分の豆撒き式の処置を取ろうという心がけからなのである。常識のこの安易な心がけが、道徳に就いての理論を妨害する第二の性質であるのだ。――道徳とは何か[#「道徳とは何か」に傍点]という問題では、すぐ様例の第一の領域道徳主義の常識が妨害を試み
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