いうことになる。
 人間の性善と性悪との対立によって、その善性だけを人間の道徳と見做すということは、事実甚だ通用性を有った常識であることを注目せねばならぬ。スティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』(この小説はキリスト教を唯物論から擁護しようとして書かれた点が探偵小説以外の興味をなすが)は、この常識の文学的な典型だろう。ジーキル博士は善で道徳であり[#「道徳であり」に傍点]、之に反してその二重人格の片割れたるハイド氏は動物性や野性を帯びているので悪であり道徳でない[#「道徳でない」に傍点]、と云った調子である。この常識は人間の心理や文学的真実に無知な新聞の社会面などに於ても、価値評価の原則になっている。あそこで「悪」とか「社会悪」とか呼んで判ったように説いているものの空疎さは、何人も気付いている処と思う。
 この常識は極めて容易く人格者と非人格者とを区別する(〔貴族院や衆議院〕の議員候補者はいつも人格者として紹介される)。まるで人格という属性を有った人間と之を欠いた人間とがいるかのように。之は又知識と人格とを区別する原理ともされている。知育に対する徳育、頭に対する肚、能力に対する精神
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