ーニュは云わばモラリストの父だが、夫が自分を描こうとした最初の人だというわけである。
 処がこの自分・自己とはモンテーニュでは何か。彼の『エッセー』は云っている、「各人は自己の前方を見る。私は私の内部を見る。私はただ私に用があるだけだ。私は私を考察し、私を検査し、私を思料する。……私は常に己れの内を省る」云々(ブリュンティエール前掲書参照)。――処でこの言葉だけを取って見ると、このルネサンスのフランスの貴族文学者は、まるで十九世紀の「ドイツの小市民」の、あのシュティルナーそっくりではないか。ただその自己がもっと文化的に教養が高かったというまでだ。とに角ここでいう自分とは、内部のことだ。自分を単に内部として感じることは、自分を「自分」としてではなしに人間として感じることだ(フランスにはメヌ・ド・ビランの『内部的人間学』なるものがある)。つまり夫は、欲すると否とに関係なく、自分を自分としてではなしに、例の個人という物体として見ることに帰着せざるを得ないだろう。――かくてモラリストの立場は、所謂人間学に[#底本では「間学に」に傍点をしているが、「人間学」あるいは「人間学に」に傍点すべきであろ
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